―旧海軍・海上自衛隊・水交会に見る一
山梨・米内大将の遺訓とその継承
 
 吉田 學 講演議事録  
                          (平成13年10月11日)
 
 ◎ はじめに
 吉田です。私は、今日出席の予定だった竹中昭君と岐阜県の恵那中学校の同級生であります。海上自衛隊では、中里不二夫君をはじめ、中尾・斎藤・村田君と一緒でした。また、数年来、36期有志の潜水艦見学、東京でのシーレーン国際会議、水交会、海軍3校1号の絵画展(いちご会)を通じ、矢吹・忍足・北村・西村・山田・渡邊その他の諸兄と懇意になり、前回の[サロン ドウ 36] にも出席させてもらいました。今回は西村君のお世話で、標題のような講話の機会を与えて頂き、光栄に思います。
 本題に入る前に、去る9月11日に生起したアメリカ中枢に対する同時テロについて、若干触れたいと思います。日本政府の対応は、イギリス・フランス・ドイツ等のNATO諸国、韓国・台湾などに比べ、最初の反応は遅く不充分でしたが、その後の小泉首相の訪米、大統領との首脳会談、7項目の米軍事行動に対する支援表明、そのための新法制定の動き、海・空自衛隊の艦船・航空機の派遣準備など、湾岸戦争時の不様さに比べると、まあまあ妥当であったと思います。アメリカ政府は、テロの翌日の12日に「国際平和と安全に対する脅威であり、あらゆる必要な手段を講ずる用意がある」を盛り込んだ国連安保理決議1368号により、国連憲章51条による自衛権を国連が認めたとして、自衛のための軍事作戦の準備を進めつつ、各国の賛同を求め、主犯のウサマ・ビンラデインとタリバンに対する包囲網を形成してきました。この間「テロ組織の資産凍結」の決議が国連安保理により9月28日に採決されています。また、NATOは憲章第5条による集団的自衛権の発動を表明しています。しかし、首相の決意にも拘らず、国内重要施設の自衛隊警備(皇居・国会・原子力発電所)に対する反対、情報収集にイージス艦派遣の反対などが、野党のみならず自民党幹部にも見られ、誠に寒心に耐えません。日本の旗を掲げて欲しいとの同盟国に対するアメリカの思い、脅威の変化に対する過去の憲法解釈(集団的自衛権行使の禁止)を脱却する機会の判らない政治が残念です。新法をめぐる国政の動きも国益を踏まえてのものでなく、手続論や解釈論、党利党略が中心です。国民の意識が進んでいるのに、政治家・マスコミ・評論家の方が遅れていると思います。先の7項目にわたる対米支援策について、岡崎久彦元タイ大使は「他国は、すでにアメリカと肩を並べられる体制になっている(集団的自衛権で動く)。日本はようやく後方支援が行えるところまで来たばかりだ。なんとか非難されない水準までもって来た。落第生から及第生になったところではないか」と事の重大性を指摘しています。
 集団的自衛権の行使を認めない従来の憲法解釈では、今回のような国際社会共通の危機対応に対等で対処することは難しい。私達は、テロだけでなく、今後の極東情勢(韓半島・中台関係)が大きく変わった場合、集団的自衛権の行使を認めないと、日本との同盟を受け入れてきた米国の従来の姿勢も変化しかねないことを肝に銘ずべきだと思います。
 それでは本題に移りたいと思います。

◎ 米内大将の御遺訓
 米内さんの御遺訓というのは、終戦が決まった時に軍務局長であった保科中将(海兵40期)等に提示されたという次の三つであります。その第一は「連合国は極東の平和の維持と民生の安定の見地から日本に最小限の軍事力の保有を許すであろうから、その時に備え新海軍再建の準備をしておくこと」、第二は「新日本再建に海軍が育成してきた技術力を活用すること」、第三は「海軍が育成した海軍の伝統と美風を後世に残すこと」、であります。終戦の大任を病躯をおして文字通り粉骨砕身全力を尽くして果たされた米内さんが、それであるからこそ、終戦の混乱の中で、なお、我が国の戦後復興と将来の海軍の再建に思いを致され、遺されたこの遺訓の意義を思い、また、胸中を拝察し、さらに内容の先見性に深い感動を覚えます。
 この遺訓について考えるとき、私は山梨勝之進大将と米内さんとのやり取りを思いださずにはおられません。それは、昭和20年5月25日の空襲で海軍省が全焼して間もなくの6月初旬、当時の学習院長の山梨さんは、ぶらりと海軍省(大防空壕)を訪れた。盛岡出身の米内さんは仙台出身の山梨さんの4期後輩の海兵29期に当たります。山梨さんが米内さんの体の事を心配して血圧の具合はどうかねと云うと、米内さんは「いやあ、海軍省まで焼かれるようでは、自分の体なんか考えておられませんよ」と答えた。すると、山梨さんは急に思いもよらぬ話題に転じた。「君、白楽天の詩を読んだことがあるかね。僕は今白楽天を勉強しているがね。良い詩がある。“野火焼けども尽きず 春風吹きて また生ず”まあ、今は焦ってもどうにもならん。焼け野の草も、いずれ春風が吹けばまた生ずさ。なあ君、白楽天は良いことを云っているじゃあないか」と。それだけ云うと山梨さんは祝田橋の方へ歩み去ったのである。居合わせた人達には、山梨さんが米内さんに和平をすすめられているのがよく判った、というものです。
    註; 白楽天・賦得古原草 送別詩             
              離離たり原上の草 一歳に一たび枯栄す
              野火焼けども尽きず 春風吹いて又生ず”
 この二人の名提督のやりとりに、あとで申し上げますが、海軍の良き美風のさりげない暖かな心の通いを覚えるものであります。私は、今日は遺訓のうち海軍の再建と海軍の美風について主として申し上げたいと思いますが、海軍の技術力の活用についても少し触れたいと思います。
 米内さんは当時の艦政本部長で蒸気タービンの権威でもあった渋谷隆太郎中将の進言を容れ、技術資料の調査を指示され、技術関係者500名を選び、電波(レーダー)をはじめ、砲術・水雷・航海・造船・造機・燃料等について夫々調査項目を示し、資料の収集整理をさせ、これを所望する法人に配布されました。これが戦後、若い技術士官を中心とする職場復帰や再就職によって、日本の各分野にわたる技術復興に大きな役割を果たしたことは周知の通りであります。さらに海軍技術の活用について、保科さんの指導により海空技術懇談会を創設され、海空技術の復興・要員の斡旋にあたり、また、経団連と協議して防衛生産委員会を創設、防衛生産能力再建の基本計画を策定し、海軍技術の活用を図られました。ご存知のULCC、VLCCといった巨大タンカーを船体をいくつかに分けたブロックを船台で建造し、ドックで接合して作る工作法は、海軍の空母建造ではじめたものですし、新幹線ひかりへの海軍航空技術の活用、その他の電子技術、半導体の技術など、海軍の技術の継承は数限りないものがあります。

◎ 海軍の再建―海上自衛隊の創設
 さて、海軍の再建と海軍の美風伝統に話を移したいと思います。
 米内さんは、連合国は日本に最小限度の軍事力の保有を許すであろうと云って折られますが、終戦時のアメリカはそのようには考えていなかったと思います。アメリカの著名な歴史家でハーバード大学の教授サミエル・モリソン教授は「アメリカ合衆国は未だかって、日本帝國海軍より以上に頑強で、それよりよく訓練され、それより以上に強力な戦闘部隊と戦ったことはなかった」と云い、また、軍事評論家ハリソン・ボードウインは沖縄戦について、「戦争はいかに冷酷であり厳しいものであるかの極限を示した唯一のものである。その規模その広さその熾烈さで、有名な英本土航空決戦(バトル・オブ・ブリテン)を凌駕する。飛行機と飛行機、水上部隊と航空部隊との間で、これほど凄惨な特異な死闘が行われた事は後のも先のもない。あれ程短い期間にあれ程多くの者を米海軍が失った例もない」と言っています。このような事から、終戦直後のアメリカは、日本が将来二度とアメリカに敵対しないように、彼らの云う日本軍国主義を根絶やしにするということで、海軍の再建は絶対に許さないと考えていたようです。しかしながら、米内さんは、佐官時代にロシア・欧州等への駐在・出張が多く、第一次大戦、帝政ロシア崩壊等ロシア・ドイツをはじめ世界の動きを身をもって体験し、見てこられたので、政治体制、国家戦略の全く相容れないアメリカとソ連はやがて対立し、平和な新しい世界秩序は実現しないことを予測し、海軍の再建も許されるであろうと予知しておられたのではないでしょうか。米内さんの洞察の通り、米・ソを核とする東西の対立は、年々厳しくなり、やがて昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、情勢が急変し、アメリカの対日政策が変わってきました。
 海軍のなくなった日本周辺の海は、不法入国・密輸入が急増し、連合軍司令部の指示により、昭和21年7月海軍残存の駆潜特務艇を使用する不法入国船舶監視本部が設置され、23年5月に海上保安庁が、27年4月に海上自衛隊の前身の海上警備隊が海上保安庁の中に発足しました。そして、27年4月28日対日講和条約が発効、29年6月9日海上警備隊は、日本の海軍的海上防衛の任務をもつ海上自衛隊となったのであります。兵力はアメリカから貸与されたPF18隻、LSSL50隻と海軍残存の掃海艇43隻、航空機14機でした。
 この過程で、米内海相の遺訓に従い、戦後野村大将を中心に保科、福留、富岡、山本善雄さんと吉田英三さん等復員局関係者が米海軍と折衝を続け、海軍再建計画が進められました。そして、昭和26年10月、PF18隻、LSSL50隻の貸与が決まり、これの使用法を検討するため海上保安庁から3名、旧海軍側から7名、米極東海軍側から5名、海上保安庁顧問団から5名をもって山本善雄少将を委員長とするY委員会が編成され、準備を進められたことも忘れることは出来ません。
 私は復員輸送、賠償艦艇のナオトカ回航を終え昭和22年夏帰郷するところ、兵学校教官の強い要望もあり、新しい海軍再建までのつなぎとして、不法入国船舶監視艇、海上保安庁巡視船本庁等に勤務し、新しい海軍の出来るのを一日千秋の思いで待っていましたので、海上警備隊が創設されるや27年6月に海上保安庁から転進しました。その時の喜びは、今もって忘れることはできません。
 海上自衛隊の創設について当初は米海軍のコースト・ガード的なものを作るよう考えていたようですが、今のような海上自衛隊になったのは、先程の海軍関係者の対米折衝に加えアーレイ・バーク大将の支援によるところが大きいと思います。彼はソロモン海域で日本海軍部隊に対し、奮戦して戦果をあげ、「31ノットバーク」の名で知られた勇将であり、最先鋭のイージス一番艦に生存中異例であるその名を冠せられた偉大な提督であり、名作戦部長(海幕長に相当)です。同大将は敵である日本海軍、そして日本人に好意を持たず嫌悪感を持っていましたが、朝鮮戦争が始まった昭和25年秋、極東海軍司令部参謀副長(当時海軍少将)として着任し、野村大将や草鹿中将、保科中将などと接するうちに旧日本海軍に好意、信頼、尊敬の念をを持つようになりました。また、宿所の帝国ホテルで接したメード・ボーイの暖かい心に触れ、日本人感が変わりました。そして尊敬する野村大将を支援して海上自衛隊の創設に尽くしました。さらに、3期6年にわたる作戦部長在任中に、アメリカの予算で、「あきづき」「てるづき」を日本の国内で建造、P2V−7等の対潜哨戒機の貸与、その後の国産化の実現、米海軍大学に留学のコースの新設、練習艦隊がアメリカに寄港の都度、実習幹部に対する講話の実施など、多方面に亘って海上自衛隊の育成発展に多大の努力をし、日米ネービーの友好、相互信頼の固い絆の基礎を築いた恩人であります。バーク大将は96年1月逝去されました。同大将は生前天皇陛下から授かった勳一等旭日章だけを、ご遺志で胸に飾られ、アナポリス兵学校の墓地に埋葬されました。墓碑に「セイラー」とあります。奥様も間もなく後を追われました。
 このバーク大将をはじめとする米海軍の海上自衛隊創設に対する好意・協力を強める上で、更には、講話条約締結を早める上で、終戦後も引き続き掃海に従事した海軍の掃海部隊の働きがあることを忘れることはできません。ご存知の通り、終戦直後の日本沿岸には、主としてB29が敷設した10.000個の感応機雷のうち未処理の機雷約6.500個と、日本海軍が防御用に敷設した係維機雷が65.000個が残存しており、戦後も触雷した船が多く出ています。海軍掃海部隊は戦後も内海をはじめ主要港湾・水路を掃海し、次々に安全なものにし、この間朝鮮戦争で米海軍の要請により25年10月〜12月の間、元山・仁川・群山・鎮南浦の掃海作業に従事しています。そして触雷沈没1隻、座礁放棄1隻、戦死1名、負傷8名を出しています。この部隊の能力、責任感等が、バーク大将をはじめ米海軍に強い印象を与え、高い評価を得ています。
 さて、海上自衛隊は、創設時の運営方針に、米海軍との連携強化を掲げ、フランクな態度で勝者アメリカの対潜、対空等の戦術を学び、各種日米共同訓練、即ち、対潜特別訓練102回、掃海特別訓練63回、毎年の艦艇・航空機の米派遣訓練、10回の環太平洋海軍総合演習(リムパック・エキザサイズ)・イージス艦をはじめとする装備の近代化、冷戦時後半における日・米の対潜哨戒機、艦艇などによる共同の封じ込めオペレーションを通じ、確実に精強性と米海軍との相互運用性(インタオペラビリテイ)を高め、相互の友情は深まり、アジア・太平洋の平和と安定のために補完し合う同士的相互信頼関係に育って来ています。(訓練の回数はH12年3月現在)
 先程申し上げたバーク大将から若輩の私も知遇を得、現役・退官後を通じ数回訪問の機会を得ました。そして度々手紙を頂きました。最初の訪問時に「海上自衛隊は大将ををはじめ、米海軍の支援があってここまで発展した」とお礼を云ったところ、「そんなに御礼を云われることはない。米海軍も海上自衛隊から多くのことを学んだ。また、海自のアタッセが米海軍より親切に面倒をみてくれる」と微笑んで云われました。私と兄弟のように親しい元太平洋艦隊司令長官のフオリー大将は私のクラスメートの集まりでの或る時の講話で「日米のネービー・トウ・ネービーの関係はユニークであり(両国政府間、両アーミー・エアフオース間にない関係)、あらゆるレベルにわたってインタオペラビリテイ、相互訓練、相互理解及び相互安全保障について一貫した目的を持っている。我々ネービーはプロのシーマンとして、共通の絆を持っており、長年にわたって培われたその絆は、強固で信頼できるものとなっている」と言っています。
 私はこの相互信頼の絆は冒頭でも触れましたが、国の運命をかけて四つに組んで、死力を尽くして闘った相手は、日本海軍だけであり、戦争中の敵愾心が、海上自衛隊創設に関わった旧海軍軍人と米海軍の戦後の交わりにおいて変わってきた好敵手間の好意が海自創設以降旧海軍軍人の必死の努力と米海軍との絶えまざるフランクな交流、それに共同訓練、共同オペレーションの成果とが相俟って、相互の友情・尊敬にまで深まり、アジア・太平洋の平和と安定のために、海洋で相互に補完しあう同士的相互信頼に育ってきたものに他ならないと思うのであります。この歴史が海軍の伝統精神の継承そのものとも云えるのではないでしょうか。
  現在艦艇443隻 37万トン、航空機20機、人員4.4万人(内婦自1.800名)の兵力となり、米内さん達の考えられた兵力を上回っています。そして海上自衛隊の任務も国際情勢に応じ多様化しており、ロシア・韓国との艦艇の相互訪問、各種共同訓練等による信頼性醸成、カンボジア等PKOに対する部隊派遣、海上輸送、ペルシャ湾における機雷掃海、トルコ地震に対する仮設住宅の海上輸送などに整々・黙々として従事しています。
 しかしながら米内さんの遺訓の海軍の再建はなったかと云えば、残念ながら未だしと云わざるを得ません。それならどうすればよいかという問題であります。ガイドライン日米防衛協力の指針(1997.9.23)及び周辺事態関連法(1999.8.5)には、穴があるといってもよいでしょう。韓半島等に周辺有事が生起したとき、米海軍は正面で闘い、海上自衛隊は戦場でない後方支援に当たる。米軍の将兵だけが血を流すような事になれば、また民間の港湾、空港の使用、輸送支援を地方公共団体や運航会社などが拒否するようなことになれば日米の相互信頼は地に堕ち、米国民の世論の動きによっては議会が動き、日米同盟はアメリカ側から破棄される可能性もなしとは言えません。テロ支援特別措置法も同じです。米側とよく調整し、不備な点を明確にしてこれを埋める次のステップが不可欠と思います。昨年3月の北朝鮮工作船の領海侵犯も、漁業法違反に対しては、相手に危害を加えない範囲という制約の下で、部隊としてはぎりぎりのところまでよくやったと思います。あのような制約下で立入り検査をやれば決死の北朝鮮軍人の機銃、手榴弾或いはバズーカ等の攻撃を受けて軽装備の隊員に犠牲が出たと思います。
  こうして考えると新海軍となるには、政治の責任と国民一般の防衛意識に行き着きます。海上自衛隊が更に精強性を高めるとともに自衛隊が名実ともに国防省に昇格し、国民一般の防衛意識も高まり、有事法制は成立、周辺事態関連法の不備が是正され、何よりも集団的自衛権行使が可能となり、平時においても領域警備体制が整い、北鮮、中国のクルジングミサイル、弾道ミサイルに対応できるTMDの日米共同技術研究が進み、態勢が整い、海上自衛隊もクルジングミサイルなどを装備し、周辺の脅威に対し自立的な抑止力が機能するようになって、はじめて米内さんの云われる新しい海軍の再建がなったと云えると思います。

◎ 海軍の美風・伝統精神の継承
 練習艦隊による遠洋練習航海は、帝国海軍から数えて今年は121回目、海上自
衛隊となって45回目であります。海軍の伝統精神と海上自衛隊の継承について、山梨さんが、練習艦隊に関連して次のように述べておられます。これは昭和37年頃、ある海将が山梨さんに「防大出身者の中には海軍の精神や伝統を継承してゆく気持ちはなく、全然別個なものを築き上げてゆこうという情熱と信念に燃えているんだという所信を吐露するものが多いが、このことについてどのようにお考えになるか」と尋ねたときの山梨さんの返事です。大将は「それはもっともな所信だ。旧海軍よりも立派で、しかも新しいものを作りたい。昔あった悪いことは止めたいというのはもっともなことで至極結構なことである。ただし、この場合次のようなことを考えなければならない。即ち、会社でも学校でも官庁でも或いは各家庭でも、実際は現在の組織というより、歴史が仕事をしているということだ。歴史が生きて動いて、歴史が仕事をしているということを忘れてはいならない。過日練習艦隊が自衛艦4隻で、遠洋航海に出港して行くときの一糸乱れぬ腕前を拝見したが、ああゆう仕事ができるのは、10年20年の歴史ではなく、100年近い古い海軍の歴史の中で、皆が作り上げた遺産があればこそである。つまり、80年90年と諸先輩が営々と築きあげた遺産があり、その精神が生きておればこそ、立派な仕事ができるのである。海自の若い自衛官は第2次大戦で現出した日本海軍の姿だけを見て、これが旧海軍の全体の姿であると解釈しているのではなかろうか。旧海軍は100年近い歴史をもっていることを忘れているのではなかろうか。日本海軍は第2次大戦だけでなく、日清(この戦役で日本海軍はどの海軍もかって経験しなかったような近代海戦を経験した)・日露・第1次大戦を経験してきているのである。このような日本海軍の歴史は、世界各国の海軍の歴史と比較してみても、いささかも遜色がないと思う。そこで、このような日本海軍の歴史上の遺産を海上自衛隊が継承していく立場にあるということを心得た上で、“もっと良いもの、もっと新しいもの”を作っていかなければならないという使命感をもつことは極めて結構なことである」と答えておられます。私はこの37年遠航の時に航海幕僚(3佐)を努めました。
 また、水交会会員の中に海上自衛隊のOB桜美会が真剣に海軍の伝統を継承してくれるだろうかという危惧があることに対して、中村悌次前水交会会長は「継承してくれることを信じている」として一昨年の水交会顧問会で次のように述べておられます。「海軍の伝統の継承については、海上自衛隊も40数年の歴史を重ねて立派な良き伝統が育ってきているので、今更海軍を持ち出す必要はないとの意見ももっともに聞こえる。しかし、その海上自衛隊の伝統のルーツは少なくとも相当の部分が、海軍にあることはいうまでもない。そして、山梨大将が申されたように歴史が生きて動いて、歴史が仕事をしているという歴史の重みが、どこの社会にもあることを忘れてはならないと思う。日本海軍はわずか77年の歴史とはいえ、世界のどこの海軍にも遜色のない歴史を残した。その伝統の中には例えば、任務の完遂とか、厳しい規律と愛情・信頼の溢れる人間関係の両立とか、正しいと信じる意見は遠慮なく云える、そしてユーモアの通じる雰囲気とか、いつの時代にも通用するものが少なくない。これは貴重な国民的資産とも云うべきものである。この歴史とか伝統ということは、空気の様なもので、その中に浸かっているときには当然なこととして全く感じないが、なくなってはじめてその有難さが判るものと思う。新興国の海軍が、いかに海上自衛隊を羨ましがったかは、私の(米海軍大学)留学時の思い出の一つである。この伝統を後世に伝え残すことは極めて意義ある仕事であり、受け継いでいくのに最も適しているのは海上自衛隊である。海上自衛隊としても、それが精強な部隊の建設、維持、発展していく上に最も望ましいことではなかろうか」と云われました。海上自衛隊で海軍の先輩、同僚、戦後世代の後輩と共に人生の大半を生きてきた私も全く同感であります。
 中村さんがふれられた海軍の気風について、過日亡くなられた内田一臣元水交会会長は次のように云っておられます。「下士官や兵の優秀であったことには疑問はない。士官たちは彼等を愛しそして信頼した。昭和の海軍をひっくるめて、例えばクラウゼッツの戦争論などを読みかじり、戦争は政治の武器でもあるなどと小賢しい理屈をしゃべって得意がる者たちを想像することは出来ない。そうゆう意味での俊秀はいなかった。彼等は、体全体で任務を果たしていた。命あれば黙々として出で立ち、敵を倒すことをたしなみとしつつ、しかも明るさとユーモアを失わなかった。ただ彼等は戦争における物量の非情を教えてもらっていなかった。特攻もそういう環境から生まれた。それを批判することは重すぎる。ただ彼等が恐れた日本滅亡を、代って事前に押し止めたのが、やはり彼等の先輩である鈴木総理や米内海相であった。年齢が離れていても一心同体であったのだ」また、こうも云っておられる。「かって日本の海軍に日本の俊秀と呼ばれ明るく気の良い士官たちがいた。みな仲良く、奇妙なしゃれや隠語を使いながら働き、部下を愛し、生活を豊かにしていた。あれで大抵一度は海軍をやめてやろうと思った男達であった。戦争を勇敢に戦い、国力の限界がきたとき、彼等の多くが自分の身を飛行機や魚雷にして倒れた。戦争をやめてくれという言葉は彼等にはなかった。彼等は護国の神になって靖国に祭られている」と。

◎ (財)水交会にいて
 最後に、(財)水交会について申し上げます。明治9年に設立し、勝海舟(海軍卿)を初代社長とする水交社は、昭和20年、占領軍によりつぶされました。最後の社長は米内大将(海軍大臣)でした。そして、昭和27年に水交会として再建され、戦後の初代会長は山梨勝之進大将です。しかしながら会員の老齢化が進み、末永く海軍の良き伝統精神を継承し、国の防衛、民族の繁栄の基礎とすべきの考えから、約5年間の検討・準備を経て、この4月に、海上桜美会(海自のOB会)と合同し、約9.200名、6地方支部をもって新しい歩みを踏み出しました。これにより、○旧海軍の良き伝統精神の継承、○旧海軍の戦没者の慰霊顕彰及び海自殉職者の慰霊顕彰、○海軍の後継である海上自衛隊に対する支援、が末永く続くことになりました。言い換えれば、旧海軍→海上自衛隊→やがて出来る新しい海軍と、断絶のない大きな流れが形成されたと云ってよいと思います。副会長・理事長・専務理事・理事・評議員も防大出身クラスが主流を占めつつあります。来春には関西支部、佐世保支部が新たに創設される予定で、目下態勢確立に努めています。矢吹君にも力を貸して頂いています。私もあとしばらくの間、新旧の橋渡しを努めたいと考えています。

◎ 終わりに
 テロ生起の前日の9月10日、台風15号の荒波をついて、練習艦隊が5ヶ月間にわたる東南アジア・インド洋・中東(ペルシャ湾には2回入る)・マダカスカル(特殊潜航艇で戦死された4英霊の慰霊祭実施)方面の遠洋練習航海を終えて帰国しました。そして、婦人自衛官4名を含む144名の実習幹部(昔は候補生、今は3等海尉)、〜我々とは50歳の開きがあり、山梨大将と我々クラス位の開きがありますが〜は逞しく成長して即日、艦艇・航空部隊に元気に赴任して行きました。当日私宛に「帰国報告」と表記した挨拶文を送ってくれ、それには「我々は若い力の全てをもって国防の大任に邁進していく所存です。日本の若い力に期待して下さい」という言葉で結んでありました。感銘を受けました。
ご静聴有難う御座いました。

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