若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
  日本海軍地中海遠征記 
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  元海軍中将(海経1期) 片岡覺太郎著
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  C.W.ニコル編
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  〈序の序〉    80年の歳月を経て       阿川弘之
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  私は海軍で暮した経験があるし、海軍をテーマにした作品も幾っか書いてゐるので、第一次世界大戦中、英国の同盟国日本が、第二特務艦隊といふ名称の駆逐艦群を地中海へ派遣し、約二年間、ドイツの潜水艇相手に戦ったことは、史実として知ってゐた。本書の著者 片岡覚太郎氏 の名前も知ってゐた。何故なら私が海軍に入った昭和17年当時、此の人は海軍主計中将で、築地の海軍経理学校長だったからーー。同じ学徒出身士官でも、私は文学部出の通信屋だが、もし法学部か経済学部を出て主計科への道を進んでゐれば、片岡校長のもとで海軍基礎教育の初歩、海軍生活の第一歩を始めるめぐり合せになったはずである。事実私の友達の中には、例へば遠藤周作の兄さん故遠藤正介主計大尉のやうに、片岡中将の薫陶を受けて一人前の、ネイパル・オフィサーとなった者が何人もゐる。
 しかし、御縁があったやうな無かったやうな此の主計科の提督が、若き日、中主計 ( のちの主計中) の身分で駆逐艦「松」に乗組み、シンガポール、スエズ経由はるばる地中海へ遠征してゐること、その作戦行動の詳細を一冊にまとめてゐることは、今まで全く知らなかった。埋もれかけのこんな貴重な文献を、80年後に見出し、読んで高く評価したのは、一読者よりの手紙がきっかけだったとは言へ、 C ・ W ・ニコル氏のお手柄である。
 ところが、此の遠征記について、ニコルさんが熱をこめて話してみても、まともに応対出来る日本人が殆どゐない。「へえ、大正6、7年頃日本の艦隊が地中海へ ? 知らなかったなあ」といふ調子で、話す方と聞く方と両方にとって、これは大きな驚きだったらしい。『盟約』の著者ニコル氏に対し失礼な話だが、ある意味では無理も無いので、敗戦後50数年間、日本の学校の歴史教科書は、日本軍が過去に立派な武勲を打ち樹ててゐることなぞ一切取り扱はなかった。それに、日本がドイツと戦った第一次の世界大戦に関しては、戦記らしい日本側の戦記が殆ど出版されてゐない。それぢゃあ片岡覚太郎提督若かりし日の此の珍しい欧州遠征記録、日本の若い読者の為に、あらためて刊行してみてはどうかとニコル氏が言ひ出し、やりませうと河出書房新社が応じ、話のまとまったところで、序文を書くお役目が突然私のところへ廻って来たのである。
 読んでみると、なるほど面白い。「松」「榊」「梅」「楠」など日本の駆逐艦8隻が、英領マルタ島( 本書の記述ではモルタ又は馬太 ) を根拠地に地中海を東奔西走、輸送船や病院船の護送任務に就いたり、出現した、ドイツ潜水艇の制圧に出かけたり、英仏海軍と共同で、席もあたたまらぬ作戦行動を展開する。英国の大型輸送船「トランシルヴァニア」がやられた時には、船尾に横付けして乗員救助中の「松」自体にも敵の魚雷が突っ込んで来て、もはやこれまでと観念する場面もあった。間一髪難を免れ、排水量僅か600トンの小さな駆逐艦が、デッキに1000人余の兵士看護婦らを満載し、イタリア領サヴォナへ入港揚陸する。翌日町へ出てみると、よれよれの服をまとったその遭難者連中が皆、深い感謝の思ひをこめて、自分たち日本海軍の将兵に手を振ってみせる。サヴォナの港を出て行く時は、海岸に「救助された英国の陸兵が黒山のように集って別を惜しむ。陸の方を見ると、海岸の通、山際(やまぎわ)の高い道、二階、三階の窓、縁側、悉く人をもって満たされ、帽を振り、手巾を振り、心なき子供まで手を挙げて」といふ光景で、読んでゐて感動する。日英両国は、 どうして此の友好関係を大戦終了後も保持しつづけることが出来なかったのだらう。日英同盟を廃棄せず、あと22、3年、お互ひ海の友邦であり得たなら、日本中の大都市が焼野原になり、全領土を米軍に占領される第二次大戦の悲劇的結末は避けることが出来たのにと思ふ。

 それはともあれ、第二特務艦隊の地中海での活躍は、連日連夜つづけられる。出て行く駆逐艦があれば入って来る駆逐艦があり、マルセイユからアレキサンドリアまで、知らぬ港は無くなったといふくらゐの、多忙な、緊迫した洋上の毎日だが、著者の筆は必ずしも大時化の航海や、船団護送、対潜戦闘の状況ばかりを叙してゐるわけでは無い。何十時間かの思はぬ閑暇に恵まれると、片岡中主計、ーーやがて進級して大主計 ( 大尉 ) 一行、相談の上、アテネの遺跡見物に出かけたり、カイロはギザのピラミッドを見に行ったり、果ては汽車に乗ってパリ旅行を試みたりしてゐる。帝国海軍の恥さらしをやっちゃ困るぞと注意しながらも、言葉はよく通じないし、各地でのその赤ゲットぶりが又、何ともユーモラスで、而も見るべきものはちゃんと見てゐて、中々面白いのである。その一方で、戦争だからむろん戦死者が出る。激浪にさらはれて殉職者も出る。いつ自分がその数に入るか分らない危険な外地勤務が4ヶ月目を迎へる頃、増援の駆逐艦4隻が佐世保からマルタへ到着した。マルタ島ヴアレッタ港内に居座ったままの旗艦「出雲」 ( 当初は「明石」 ) を別にすると、第二特務艦隊所属の駆逐艦群はこれで総計12隻になった。
 実を言ふとその頃、日本の駆逐艦がもう12隻、地中海へやって来る。海軍生活の経験者でも、此のことを知ってゐる人は数が少い。事情を簡単に記すなら、当時フランスは西部戦線で、ドイツ軍と苦しい対峙状態にあって、海軍の工廠も陸戦用の兵器製造に追はれてをり、軍艦まではとても手が廻らなかった。それで、日本の造艦技術に眼をつけ、新しい駆逐艦を12隻造ってほしいと、日本政府へ依頼状が届く。これを受けて、横須賀や呉の海軍工廠、三菱の長崎造船所など、6ヶ所で手分けして2隻づつ急速建造したのが、本書「中之巻」第十四節に出てゐる「回航駆逐隊」である。ポートサイドまでは日本の軍艦旗を掲げ、日本海軍の乗組員が回航して来るのだが、此処で旭日旗を下ろし、乗員交替してフランス側に引渡される。呉や佐世保に艦籍のある帝国海軍固有の艦艇とちがふので名前のつけやうが無く、建造中も回航中も、三番艦とか五番艦、七番艦、十一番艦といふ風に呼ばれてゐた。フランス海軍は受領後、「アラブ」、「トンキノワ」、「アルジェリアン」等々、それぞれの艦名12隻一括して「ティープ・ジャポネ」 ( 日本型駆逐艦 ) と称した。したがって第一次世界大戦の後半期、地中海では日本製の駆逐艦併せて24隻が対独作戦に従事してゐたことになる。
 私は25.6年前から、ヨーロッパ旅行に出る度、一度機会を作って、これら駆逐艦群ゆかりのポートサイドやマルタを訪れてみたいと思ってゐた。思ふだけで中々実行出来なかったのだが、偶々 昨年 ( 西暦2000年 ) 9月、私の乗った地中海クルーズの客船が、航海4日目早朝、マルタ島のヴァレッタへ入港した。すぐ近くに、何処かの国の駆逐艦が一隻接岸してゐた。望遠鏡でよく見れば、コール (USS COLE) といふ米艦だが、8時になると日本海軍と同じやうに、国歌演奏軍艦旗掲揚の儀式をやる。艦尾に星条旗の上るのを眺めながら、私は80余年前、日本の駆逐艦が何杯も此の港に碇泊してゐた光景、船団を護衛して出て行った光景、帰って来る光景を頭に描いてみた。
 タクシーを一雇って、戦没日本海軍将兵の墓所も訪ねて行った。それは英聯邦陸海空軍共同墓地の、広大な敷地の一角に、一つの石の慰霊碑のかたちになって、古びた姿を残してゐた。碑に詣で、昔「松」や「柏」が入渠した造船所のドックも眺め、これで長年の望みを果すことが出来て満足だったけれど、そのことを旅の随想として新聞雑誌に発表する気は無かった。実際、何も書かなかったし、人にも殆ど話さなかった。ところが、帰国後6ヶ月目、私の地中海クル-ズ、マルタ寄港を知ってゐるはずのない河出書房の編集部から、こんな、思ひも寄らぬ執筆依頼が来たのである。不思議な気がした。今は此の世にゐない第二特務艦隊全艦艇の乗組員総員が、君、それは引き受けろよ、片岡大主計ご本人の序文の前に、もう一つ新しい序ヲ書いて、俺たちの孫の世代そう曾孫の世代が、この遠征記を楽しみながら読むように、しっかり奨めてくれ給え、これも何かの因縁だぜ、そう言っているかの如く感ずる。
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 «解説 » 誇らしい物語      C.W.ニコル
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   1996年のこと、ぼくは書き終えたばかりの小説について、ある雑誌と新聞のインタビューを受けた。『盟約』というその小説は、明治時代、日英が同盟を結んでいた当時の日本帝国海軍を扱ったものだった。しばらくして、ぼくはひとりの若者から手紙をもらった。荒木純夫さんというコンピューターのコンサルタントをしている人で、彼のおじいさんという人が、第一次大戦中、地中海に派遣されていた日本の駆逐艦、「榊」に乗り組んでいて、魚雷攻撃を生きのびたのだという。荒木さんは、当時のことを記録したひじように珍しい公式文書をもっているが、ぼくに読みたいか、といってきてくれたのだった。
 完成したばかりの小説のリサーチをしていたときに、第一次大戦中の日本帝国海軍の働きについては、いろいろ調ぺもしたし、人に訊きもしていた。しかし、とりわけイギリスの専門家は、そのことは大して重要ではないといった。戦争勃発時の日本はある種の「火事場泥棒」だったというような、ちょっと皮肉な態度すらうかがえた。日本は、ひたすらドイツから青島を奪取したかっただけのことなのだという。しかし、ここにはまったく異なる視点があった。これは、海を哨戒し、戦い、何千もの人命を救った、日本の海軍軍人たちの物語なのだ。
 マネージャーの森田さんがその文書を入手、ふたりで読んだとき、ぼくは胸にむらむらと興奮を感じた。とくに、われわれがすぐに”片岡君”と呼ぶようになったこの若い士官の、率直で、正直で、ユーモラスな記述に惹かれた。この記録を読んで、日本の小艦隊の基地であったマルタに、とにかくいってみなければと思った。  
 1997年7月6日、ぼくはとうとうマルタに到着、ヴァレッタにある、古いけれども豪華なホテル、フエニキアに泊った。翌朝早く、ポーターに海軍墓地の場所をたずね、タクシーをつかまえた。墓地は開放されていて、敷地内はマルタの管理人によってきちんと手入れされていた。日本帝国海軍の記念碑は、飾りけのない一本の柱で、地中海での任務中に亡くなった全艦隊員の名前と階級が、銅板に日本語で彫られている。背後には古い石壁があって、ブーゲンヴィリアの緑と紫に彩られ、近くの木では何十羽もの雀がにぎやかにさえずっていた。眼下には、グランド・ハーパーが広がっている。ぼくは、日本酒の小壜と、小さな”海苔”のパックと”梅干し”を、記念碑の石台に供え、頭を垂れた。この男たちは、故郷からかくも遠く離れて亡くなった。連合軍の勝利に多大な貢献をした。それなのに、ほとんど忘れ去られていた。第二次大戦のために、彼らの物語は歴史にうずめられてしまったのだ。涙が浮かんできた。この男たちのためばかりではなく、彼らのことを考えていたら、祖父たちの思い出がよみがえってきたのだ。祖父の一人は、あの悲惨な戦争のさなか、フランスの塹壕で戦った。その話を、ぼくは子供のころに聞いていた。そしてもう一人の祖父、ニコルは、英国海軍の一員として同じ戦争に出征、彼ら勇敢な若い日本人と、同じ敵を相手に戦ったのだ。
 あたりを見回すと、イギリス人、イタリア人、フランス人、ドイツ人水兵の墓があるのに気づいた。敵も味方もともに、静かで手入れのゆきとどいた、同じ平和な島の墓地に葬られているのだ。
 ぼくは図書館で調べものをしたり、日本の戦艦が入渠していたグランド・ハーパーを歩いたり、彼らが長く厳しい哨戒のあとで、酒を飲み食事をした通りをぶらついたり、海軍の報告書で触れられている場所を訪れたり、めったにない休日に彼らが足を向けたのではないかと思われる場所を想像したりして、マルタで忘れがたい数日を過ごした。
 年代を経たすばらしい国立図書館で、ぼくはイギリスとマルタを結び付けていた長い海軍の歴史に思いをいたし、じっくり考えてみた。そして、彼ら日本の海軍軍人のだれかと、祖父が、あるいは叔父たちの一人が、ここでふと出会ったりしているのではないか、と思った。
 1800年にフランスからマルタを攻略したのは、イギリスの偉大な提督、ネルソンだった。パリ条約によって、マルタがついにイギリスに移譲されたのは、1814年のことだ。それ以来、マルタは地中海における英国海軍の一大基地となった。ぼくの父も、祖父も、曾祖父も、また海軍に籍を置いていた多くの叔父たちも、マルタがイギリスの支配下にあった179年のあいだに、英国海軍の船に乗ってここを訪れたか、ここに駐屯したかしていたのだ ( 常駐していた HMS セント・アンジエロが旗を下ろしたのは、1979年の3月12日のことで、このときにイギリス海軍によるこの島の統治は終わった ) 。
 ぼくのマルタ滞在がいくらか関心を集め、、ドクター・、ダニエル・ミカレフのお宅に招かれた。64年に、この小さな島国がイギリスから独立を宣したとき、初代副大統領となった人物だ。ドクター・ミカレフはじつに魅力的な紳士で、現在では政界を引退されているが、いまも一般開業医として多忙な毎日を送り、ささやかな診療所で人々の治療にあたられている。彼はまた敬虔なカソリック信者、歴史家、詩人でもあり、ぼくがマルタを訪れたいきさつについて、興味津々といったようすで耳を傾けておられた。
 「ここにはそんなに多くの日本の船がいたのか ? 」
ぼくはノートをとり出した。
 「ええ・・・」といってぼくは、日本からはるばる海を渡ってきた駆逐艦と巡洋艦、イギリスから借り受けた2隻の駆逐艦と2隻の武装トロール船の名前、各艦に乗っていた日本海軍軍人の数、それから彼らが、だいたいどのぐらいの期間、マルタを基地にしていたか、といったことを読みあげた。やにわに医師はにっこり笑うと、膝をたたいて叫ばれた。
 「なるほど、それだ ! 」
 ぼくはぽかんとして見つめた。何がどうわかったというのか ? 彼はすぐに説明してくれた。
 「だってね、マルタの歴史を通じて、この島に住んでいた東洋人などほとんどいなかったんだよ。いたとしたってごくごくわずかなものだった。それなのになぜ、マルタの赤ちゃんにこうも多くの蒙古斑があるのかと、長いことふしぎに思っていたんだ。あなたのおかげで謎が解けましたよ」
 ふたりして声をあげて笑いだしてしまった。さすれば強壮な明治の海軍軍人は、海と同じく陸の上でも猛り立っていたというわけだ !
 物語のそのくだりは、厳に秘されていたのである !
 第一次大戦の小説を完成させたぼくは、 ( 阿川先生に負うところ大だが ) 新しい資料が出てくるにつれ、こういう認識を得た。地中海をはじめとした地域での日本帝国海軍の尽力は、むろん数字のうえでは、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ軍その他に比べると小さいとはいえ、戦争の流れを一変させたといえるのではないかと。彼らのおかげで形勢が変わったのだ。だから彼らの物語は、日本人だれもが誇らしく思っていい物語なのだ。ぼくも、英国海軍軍人の息子であり、また孫である者として、また新しい日本人として、この物語にふたたび息を吹きこむ一役をになえ、胸がいっぱいである。
 しかしこの本の編集を始め、片岡覚太郎の文章を中心にした本にしようと決めてから、”片岡君”と呼んでいたこの若い主計官が、じつは海軍中将にまで昇格していたこと、のちに海軍の任務でアメリカに派遣されていたことを知った。彼はおそらく明治42年に、海軍経理学校の第1期生として帝国海軍に入隊、大正2年小主計に任官、昭和18年に予備役に編入、昭和34年12月に亡くなっている。ぼくが日本にくるのが4年早かったら、彼と会ったことさえあるかもしれないのだ。ぼくは心中ひそかに思った。日本がかつての盟友、イギリスと戦争に突入せんとしていたとき、彼はどのような思いでいたろうかと。この本が出版されるときに、彼がどこかでほんのちょっとほほえんでくれたらと願う。
             
      黒姫にて、C.W. ニコル
                       2001年3月26日
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