引揚げの哀歓と掃海の秘録
 
あヽ復員船 
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  海軍経理学校第35期 珊瑚会編
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  まえがき
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  本書を「珊瑚会」 ( 旧海軍経理学校生徒第35期 ) というクラス会の名で出版したいきさつと、本書の内容の背景となっている当時の事情は、現在とは大きく異なっているので、特に戦後生まれの読者の理解のため、ひととおりの説明を加えてまえがきとした。
 「珊瑚会」について
 戦後も46年を過ぎ、海上自衛隊の存在は一応知っているにしても、かつて威容を誇った日本海軍や、大東亜戦争については実感のわかない世代が多くなった。
 昭和16年12月8日 ( 日本時間 ) 、日本海軍の精鋭6隻 ( 「赤城 」 「加賀 」 「蒼竜」「飛竜」「翔鶴」「瑞鶴」 )の航空母艦から飛び立った350機の海軍航空機が、アメリカ太平洋艦隊の根拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を急襲して、日本の命運を賭けた戦いが開始された。そして3年9カ月、総力を挙げての死闘の末に、昭和20年8月15日、昭和天皇の御聖断によって、日本は無条件降服の止むなきに至ったのである。全国焼土と化した中から、まさに玉音放送にある「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」奇跡といわれる経済復興を成し遂げた。
 戦争放棄の憲法の下で、平和を謳歌している今日では考えられないような戦時色の濃い戦前の全国の中学校には、配属将校という軍人が派遣されており、軍事教練が正課であった。
 したがって、中学生が当時の教育方針に則り、お国のためにと陸海軍の将校 ( 士官 ) を養成する軍の学校を志願した者は多い。海軍では、兵学校 ( 広島県・江田島 ) 、機関学校 ( 京都府・舞鶴 ) 、経理学校 ( 東京都・築地 ) という三校があり、これらを志願する旧制中学の4、5年生および浪人中の若者にとてては、かなりの狭き門であった。w
 東京に所在する「海軍経理学校」は、その職務柄、受験年齢の制限が他の2校より2年長く ( すなわち、3浪まで受験できた)、また、近視でも差し支えない ( 裸眼で 0 ・2、矯正視力で1.0以上 ) ということや、採用人員が極めて少ないことと併せて一層の狭き門であった。
 そうした中で、昭和17年8月、全国各地で採用試験が行われ、晴れて合格の電報を手に、同年12月1日、築地の校門をくぐった104名が、生徒教程の35期である。2年4カ月と短縮された訓練期間を経て、昭和20年3月30日に卒業、海軍主計少尉候補生として巣立ち、99名が第一戦へ配属された。このクラスの名称 ( 35期 ) にちなみ名付けた「珊瑚会」 は、固い団結のもと今日まで続いている。
 ちなみに、同時に兵学校に入校、卒業したクラスは74期 ( 卒業者1,024名 ) で、「江鷹会」と称し、機関学校は55期 ( 卒業者318名 ) で「たんご会」という。三校を合わせて海軍では、これを「コレス」 (CORRESPOND=一致する・相当する ) と呼び、このコレス会を「三鴎会」と名付けて交流を続けている。
 海軍経理学校と海軍主計科士官について
 海軍の主計科とは、艦艇や部隊など組織集団の、庶務・人事・給与等の事務と、被服・糧食・酒保物品の管理等を掌ることを本務としている。海軍経理学校の生徒教程は、この主計科の幹部である士官を養成するコースで、旧制中学出身者から選抜、3年前後 ( 数年前までは4年 ) 教育して卒業させ、さらに士官候補生として約6カ月、練習艦隊や実施部隊で実務を習得させたうえで少尉に任官させた。海軍で生涯を終わることが前提であるから、退官後の生活保障の意味もあって、養成人員も限られてした。
 しかしながら、戦争に備えて拡大を続けた海軍の組織は、開戦と共に一層必要人員が急増したものの、養成に年月のかかる生徒教程ではまったく不足する状態であった。そこで、一般の大学文科系を卒業した者の中から、直ちに海軍主計中尉として採用し、約6ヶ月の実務教育をして送り出す制度(2年現役制度、一般に短期現役、略して「短現」と呼ぶ)が新設された。昭和13年7月1日入校の第1期35名から、昭和20年4月1日卒業の第12期917名まで、合わせて3,555名の主計科士官がこの制度から生まれ、海軍経理学校で訓育を受けた ( この間、受験資格について、専門学校卒業まで可とされたり、また入校・卒業後の身分などの扱いについても、見習尉官、少尉とするなど変遷があった ) 。
 同じ時期の生徒教程出身者は、28期から35期までで、373名に過ぎない。当時は国民皆兵、男子はすべて徴兵検査を受けて、初年兵として軍隊に入ることが義務付けられていたから、大学・高専といった教育を受けた文科系出身者にとって、初めから士官として遇されるこの制度は、大きな魅力であった ( 理科系も短現制度があり、技術中尉となる道は開けていた ) 。
 終戦内閣の米内光政海軍大臣が、これらの短現出身者は、日本復興の中心となるべき人材であるから、真っ先に復員せしめるよう指示されたのは正に慧眼であり、事実、ある時期、各省の事務次官がほとんど短現出身者で占められていたことがこれを実証している。
 海軍経理学校では、このほかに、徴兵もしくは志願兵として海軍に入り、主計科に配属され、試験等によって進級、士官となる練習生コースもあり、この教育も行われていたが、この人たちが最も実務に熟達していた。
 終戦と戦後処理 ( 復員輸送と機雷掃海 ) について
 我々が卒業赴任した昭和20年3月末には、すでに米軍の大部隊が沖縄を攻撃中であった。同海域には、アメリカの空母22隻、戦艦20隻、巡洋艦32隻、駆逐艦83隻、その他多数の特殊艦船および、航空機1,163機という一大兵力が集結していた。これに対し、追い詰められた日本海軍の戦闘可能な艦隊としては、僅かに戦艦大和、巡洋艦矢矧のほか駆逐艦8隻の第二艦隊しか残っていなかった。
 この残存艦隊が、飛行機の援護もない裸の状態で沖縄に向け、最後ともいうべき特攻出撃したものの、米軍航空機の前にあえなく潰滅、傷ついた駆逐艦4隻のみが辛うじて佐世保に帰投した。この作戦で我が軍は、6隻が撃沈され3,721名もの戦死者を出したのに対し、米軍は僅かに10機の飛行機を失ったのみという、悲惨な結末になった。そして程なくして沖縄は米軍の手中に帰し、それ以降、本土決戦に備えて全国各地の特攻基地で連日の空爆の下、猛訓練が行われているなか、8月15日を迎えたのである。
 この間、我がクラスでは2名が戦死、残った97名が全員、最後のご奉公として復員輸送、機雷掃海の任務に従事した。各基地には、本土決戦のための資材、糧食等が物資欠乏のなか、相当備蓄されており、これが復員輸送、帰還者用に充当された。しかし一般市民の生活は衣食住全般にわたって極度の窮乏状態にあった。
 したがって、内地の各部隊から一旦帰郷した元の乗組員たちが舞い戻った多くの復員艦では、規律は乱れ、糧食・被服等の管理責任者の立場にあった我々クラスの若き主計長たちの苦労は尋常ではなかった。
 クラスの記録集出版と今回の本書出版について
 我々は志望して海軍士官となり、終戦直前の昭和20年7月15日、主計少尉に任官していたことから、なんと戦後は公職追放該当者とされ、大学受験の途も閉ざされていた。しかし中央およびかつて海軍と縁の深かった大学教授諸氏のご尽力により、昭和21年2月、学生定員の一割以内という制限つきながらも、大学受験・進学の門が聞かれた。
 復員輸送業務も、予想以上に順調に進捗しつつあったことから、新しい道を求めて大学進学を目指す者も出始め、昭和23年までには、35期生では47名が大学に進んだ。
 世の中の落ち着きとともに、同期の桜というきずなが、クラス会というかたちをとるようになったのは自然のなりゆきであった。そうした会合での語り合いでは、当然のように復員輸送や掃海業務で味わった苦難話が多かったし、またお互いに知らなかった事実も少なくなかった。
 昭和59年、お互いがそろそろ還暦を迎える年代となり、ささやかながらも我々の体験した事実を記録として残そうという気運が盛り上がり、同年11月『最後乃海軍士官』と題して、729頁にわたる記録集を出版した。その中で「復員輸送・掃海業務」という項目は、168頁に及んでおり、最近の中国残留孤児問題を連想させるコロ島からの輸送や、栄養失調の極限状態にあった人たちを乗せたフィリピン航路の話などは、貴重な史実といえよう。
 私はここに本書が、我々の級友、故高橋辰雄君の遺志がこめられていることを語らなければならない。高橋君は復員後、東大文学部美学科に入り、昭和25年卒業、演劇の途に進み、民放開始後は放送作家として劇作や演出を手掛けていたが、彼は作家としての視点から、自らの体験も含めて、この復員輸送をテーマとした本の出版を企図していた。
 彼はその前提として、昭和62年3月に、祖父・父・自分と親子三代にわたる海軍軍人の家系を素材に『桜と錨 | わがネービー三代記 | 』なる本を出版、引き続き平成元年11月、第2作の『護衛船団戦史ー日本輸送船団死闘の戦訓ー』を出版した。そしていよいよ、復員輸送を主題とする第3冊目の出版企画に着手し、資料の整理、関係者との文通・インタビューなど準備を進めていた。しかし不幸にして病魔 ( 喉頭癌 ) に冒され、平成2年2月13日遂に不帰の人となった。

 高橋君は生前、我々のクラス会報に「私にはどうしてもやり遂げたい仕事がある。復員輸送の出版、これを完成させなければ死んでも死に切れない」と固い意志を寄せ、声帯除去という苦境にありながら、企画まとめに情熱を注いでいたのである。ご遺族から伺ったお話や、残された資料から、彼の悲願とした「復員輸送」 についての構想の骨子が、目次に示されている。
 我々は何とか彼の遺志を継いで出版の実現を図るべく、吉岡秀夫君 ( 復員後、慶応義塾大学ー朝日新聞社会部記者ーテレビ朝日報道局長・役員 ) にまとめ役を負ってもらい、出版の具体化に入った。しかし問題は、高橋君が作家としての立場で意図したと思われる構想の中には、第三者には扱い難い部分があることや、我々の知らない資料提供者への再取材の困難さ、さらには出版時期等の制約もあるので、追補などに限界があり、いささか彼と視点を異にする面のあることを、ここにお断りしておきたい。
 いずれにしても、終戦という未曽有の事態に直面して、我々の体験した一側面の史実を世間にご披露することにより、いささかなりとも日本の今後を考えるうえで、意義あることを願う次第である。

     平成3年11月
           珊瑚会代表幹事  坂本克郎 (池上通信機副社長)
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 プロローグ
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 復員輸送はこうして行われた         高橋辰雄
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   復員輸送という民族の大移動
 敗戦時、海外にいた軍人軍属・一般邦人は約630万人といわれた。このうち軍人軍属が300万、一般邦人は330万人であった。
 630万人というと、当時のオーストラリアの人口に等しい。アジア太平洋地域に散らばっていたこれらの人びとをすべて日本内地に引揚げさせることは、まさに民族の大移動を実行するに等しい大輸送計画であった。
 昭和20年3月に海軍兵学校・機関学校・経理学校のいわゆる海軍三校を卒業した兵第74期・機第55期・経第35期の候補生たちは、内地の実戦部隊に配属されたが、すでに油不足で艦艇部隊は半身不随に陥っていたし、航空部隊もまた飛行機の数は限定され、わずかに海上特攻部隊が日本中の津々浦々で突撃のための訓練にいそしんでいた。
 これら候補生たちが一人前の少尉に任官させられたのが、終戦ひと月前の7月15日である。そして突然の終戦・・・残務整理などに追われているころ、そこへこの大輸送計画の話である。
 「おまえたちは昭和17年暮れから海軍の飯を食って今日まできた。せめてこの際、復員輸送で最後の奉公をしてくれんか」と上の人もいい、同時に私たちすべてが海外の同胞を救うのは生き残った我々の義務と考え、なんらかの意味でこの復員輸送に参加したのである。
 復員輸送の準備
 終戦当時、日本海軍には使用可能な艦艇は132隻、18万トンしかなかった。米海軍のニミツツ提督はこれらの艦艇を復員輸送に使用することを許可した。またマ司令部は、使用可能な残存民間船舶のうち55隻を復員輸送に振り向けることを許可した。日本政府はさらに多くの民需用船舶を復員用に振り向けるよう要請したが、マ司令部は許可しなかった。食糧不足で餓死寸前にある内地で こ;れ以上民需を圧迫すれば、日本人は次つぎと餓死していくことが目に見えていたからだ。このため、当初外地からの復員は4年以上かかるだろうと予想された。
 日本政府はそこで次に米船舶の貸与を要請した。この要請は結果的には受け入れられるのだが、マ司令部は初めから色よい返事を決してしなかった。現在入渠修理中の船舶をできるだけ早く使用可能にして就航させよ、といった返事をするだけであった。その大半の船舶は、戦争中に大破したり沈没した船舶であったし、修理に必要な資材も不足していたから、就航に至るまでの作業はなかなかはかどらなかった。
 昭和20年末に至って、マ司令部はリパティ型輸送船約100隻、 LST 輸送船85隻、 LST改造の病院船6隻を復員輸送用に貸与すると発表した。これらの貸与船舶がにわかに許可された事情の裏には、満州における国府軍、中共軍、ソ連軍三つ巴になっての国共戦の影響があった。
 在支米海軍は国府軍をできるだけ早く満州に送るべく、沖縄や比島にあったリパティ型輸送船や LST 輸送船を総動員して、国府軍の十三軍と十五軍を秦皇島に輸送した。それまで蒋介石は国府軍を日本内地に進駐させるつもりでいたが、満州の内戦が不利と見てこれを断念した。このため大量の輸送船が宙に浮いてしまった。そこでマ司令部は、これらダブついた輸送船を日本に貸与することにしたのである。
 これらの貸与船は最初のうちは米海軍の兵隊が動かしていたが、貸与なのであるから当然日本人船員が運航しなければならない。そこで船舶運営会は大量の船員を召集した。海軍艦艇の乗組員は復員を延期した元海軍軍人によって構成されたが、米貸与船は戦争中に徴用された元輸送船乗員が動かした。
 海軍艦艇はそのまま復員船として使用する事は出来ない。武装解除が必要である。そこでドックに入れて、大砲・機銃・魚雷発射管などの武装をすべて撤去し、新たな人員輸送のための居住区・便所などを新設した。米貸与船も日本人船員が馴れるために訓練期間が必要だったし、居住区や便所の新設が必要だった。食糧はかつての海軍軍需部が保管していたものを使用した。復員者用の食糧や衣料もすべてここから出た。問題は艦船を動かす油であるが、これはすべて米タンカーから補給されることになった。復員船は内地を出港するたびに、あるいは外地の港に入港するたびに、米タンカーに横付けして重油を満載した。

 
9月28日、陸軍は小樽・浦賀・新潟・清水・敦賀・広島の各地に上陸地支局を開設した。10月1目、海軍は横須賀・呉・佐世保・舞鶴・大阪・大湊に海軍収容部を開設した。10月15日、地方引揚援護局が設置され、軍人軍属・一般邦人の受け入れ業務はすべて援護局に統合された。そして GHQ は厚生省を引揚げに関する中央責任官庁に指定した。
 陸悔軍省は11月いっぱいで消滅し、第一・第二復員省となった。当時、復員輸送業務に従事していた私たちは予備役に編入され、即日充員召集を受け、12月1日をもって第二復員官 ( 高等官八等 ) となった。復員船乗員とは別に、陸上でこれら艦船に物資を補給する需品部 ( かつての軍需部 ) の部員と云った主計科員も、すべてがないもの尽くしの内地での物集めに苦労した。たとえば生鮮食料品などがそれである。直接農村に出掛けて行って農家の人たちと交渉したりした。
 復員輸送の実際
 初期の外地からの復員輸送は食糧自給が困難で、餓死寸前の南方離島 ( メレヨン島・南鳥島・ミレ島 ) から開始することになった。
  9月30日、高砂丸はメレヨン島からの復員第1陣を別府に運んで来た。
  10月8日、氷川丸はミレ島から浦賀に入る。
  10月16日、ウエ ーキ島からの将兵は、米兵捕虜刺殺事件究明のため2日
         間船内に滞留させられたが、18日上陸を許可された。
 本格的な復員輸送は昭和20年12月前後から、まず海軍艦艇によって開始された。そして昭和21年1、2月頃から、米貸与輸送船での輸送が始まった。これを大きく分けて三つの型の艦船の輸送で捉えてみたい。代表例として、空母「葛城」・駆逐艦「欅」・ LST の三艦船を挙げたい。 
 A  空母「葛城 」 の場合 ( 大型軍艦 )
 昭和19年10月、呉海軍工廠で竣工。排水量2万2000トン、速力32ノット、航空機64機を登載する中型空母。 
 昭和20年7月の呉空襲で飛行甲板はめくれ返ったが、修理の結果、航行に差し支えがなかったので復員輸送に使用されることになった。すでに日本海軍の大型軍艦はすべて海没していて、空母では「葛城」と「鳳翔」、巡洋艦では「酒匂」「八雲」「鹿島」、水上機母艦「長鯨」が使用に耐えるものであった。そして、「葛城」は復員船として大きな能力を発揮した。
 まず人員の収容能力が抜群に大きい。それは次に紹介する駆逐艦「欅」がせいぜい300〜500名であるのに対して、5,000名が収容できる。航続距離が長いから遠隔の地からの復員輸送が可能である。速力が速いから輸送の回転効率がよい。といった理由で、「葛城」の復員輸送記録は次のようなものになった。輸送は八回実施された。

 @ 南大東島・・・・S20・12・18〜12・28
 A ブーゲンビル島・トロキナとラパウル・・・・S21・1・15〜2・8
 B トロキナとラパウル ・・・・S21・2・14〜3・9
 C 北ボルネオと仏印・・・・S21・3・31〜4・26
 D 比島・サンジヤツク・・・・S21・4・28〜5・18
 E シンガポールとバンコック・・・・S21・5・24〜6・15
 F シンガポール・・・・S21・7・3〜7・26
 G スマトラ島・メダンとタイのゴーシチャン
               ・・・・S21・9・26〜11・2            
 B 駆逐艦「欅」の場合 ( 小型艦 )
 昭和19年12月15日、横須賀海軍工廠で竣工。排水量1,262トン、速力28.8ノット、12.7センチ高角砲2門、4連装魚雷発射管1基。私の乗った「董」もこれとほぼ同型艦であった。 「欅」は輸送を15回行っている。 
 @ マニラ・・・・S20・10・26〜11・12
 A マニラ・・・・S20・12・2〜12・15
 B マニラ・・・・S20・12・31〜21・1・14
 C 高雄 ・・・・S21・1・19〜1・27
 D 中国・汕頭・・・・S21・2・7〜2・19
 E 基隆・・・・S21・2・22〜2・27
 F 基隆・・・・S21・3・1〜3・9
 G 基隆・・・・S21・3・13〜3・21
 H 基隆・・・・S21・3・24〜3・29
 I 上海・・・・S21・5・7〜5・15
 J 上海・・・・S21・5・26〜6・1
 K 上海・・・・S21・6・15〜6・23
 L コロ島・・・・S21・7・21〜8・2
 M コロ島・・・・S21・8・8^8・17
 N グアム島・・・・S21・10・15〜10・29
 C LST の場合
 米軍から貸与された船舶は次の三種類である。
 @ LSTー3,000総トン、油焚きレシプロ機関13ノット、1,300名
   収容。これが100隻。
 A リパティ型貨物船ー8,000総トン、油焚きレシプロ機関13ノット、
   3.200名収容。戦時急造船で評判が悪かったが、日本の戦時急造船
   に比べれば天地ほどの違いがあった。これが100隻。
 B CI 型貨物船ー5,100重量トン、ディーゼル機関13ノット。これが
   9隻。ただしこれは復員輸送はせず、民需用。
 戦時中、軍に徴用されていた船員は戦後、逐次徴用解除をしていたが、米貸与船に乗る船員が1万4000名も必要になったため、急遽徴用解除を中止して、全国の予備船員を召集した。だが、戦時中に酷使された船員たちは、二度と船に乗るのは御免とばかり集まりは悪かった。 
 海員組合の藤倉五十次氏は戦時中に自分が運んだ外地にいる軍人たちを再び迎えに行くべく、LST 乗組みを志望した。以下は藤倉氏の乗った LST の輸送記録である。
 昭和21年5月15日に佐世保で LST に乗船。
 @ 上海〜佐世保
 A 釜山〜佐世保 コレラで隔離。
 B 比島・サマール島 このときは部隊が集結せず、空船で帰る。
 藤倉氏の場合は、復員輸送をしながら組合運動をしたのが特徴である。乗って貨物輸送をした。この あと氏は「山村丸」に乗って貨物輸送をした。
 @ 北海道・室蘭〜川崎 石炭輸送
 A 室蘭
 B 釜山
 C 青島
 D ラングーン 米輸送
 一年乗船したのでここで休暇を取る。ところが休暇明けに榊原汽船に移籍される。左遷だ。今度乗った船は「宣城」。 昭和24年3月、田沼造船所。下松造船所でメーデーとなり暴れる。
 @ 北海道
 A 小樽 海難事故
 昭和24年末、名古屋で下船。
 終戦直後の軍需品不正処分の問題
 終戦のドサクサにまぎれて軍隊から復員するとき、大量の軍需品を持ち出した者は大勢いる。このことは戦後の国会でも問題となり、陸海軍の次官がこれについて報告しているが、真相を究明しようにも軍隊はもはや解体しているのだから困難なことであったし、復員省の裁判 ( 戦前の軍法会議 ) にかけるといっても効果はあまり期待できぬ有り様であった。
 なにしろ物のない時代だから、こっちの土地の物をあっちの土地に動かすだけで金が儲かった。いわんや復員船は外地まで行けるのだから、こうしたヤミ行為は可能であった。海軍では、艦のものをくすねることを「銀パエ」 というが、兵隊たちが米や砂糖を銀パエして、これを上陸時に民間人に売りさばいた例はいくらでもある。
 海防艦198号は南大東島からの復員輸送を何度かやったが、そのたびに内地にはない砂糖を大量に仕入れてきた。艦が佐世保に入ると、聞きつけたよその艦の主計長が、198号の鈴木福雄主計長のところへ砂糖をよこせとやってくる。気前のいい鈴木はどんどんこれに応じた。ところが兵隊たちが砂糖を銀バエして佐世保の町で売りさばくようになった。
 投書が警察や米軍軍政部に舞い込むようになる。事情調査を受ける。ついには第二復員裁判にかけられた。結果は有罪で、海198号の艦長が3,000円、鈴木主計長は2,000円の罰金を申し渡された。鈴木に悪意はなかったので、多くの先輩やクラスメートが裁判の応援に駆けつけたものだった。砂糖がこのように問題化したのは、いかにも終戦直後らしいし、復員輸送ならではの出来事である。
 引揚援護局収容所
 各地の引揚援護局にはとりあえず3泊4日ぐらい滞在できる収容所があるが、行き先のない沖縄の人たちなどはそのまま居座ることになる。衛生状態もよくないので、病気にかかって死ぬ人も出てくる。といった有り様で、収容所の抱えた問題は山積している。
 大陸からの引揚者の中にはコレラの保菌者が多い。乗船時の診察で怪しい者は乗せないことになっているが、それでも内地に着いたころ発病する者がいる。そこで内地の港に着いても発病期間が過ぎるまで上陸させない。いざコレラ患者が出たときは、他に感染した者がいないかを調べるために、隔離期間がさらに延長される。かくして引揚者たちは故郷の山々を目の前に見ながら、延々とお預けを食らうことになる。
 昭和21年4月、広東からの引揚者にコレラ患者が発生して以後、うなぎ登りに患者が増え続けた。このため浦賀沖では上陸できないコレラ患者の艦船が増加し、海上コレラ都市が出現する。しかもその救済処置は遅々として進まず、これらの引揚者たちは上陸するや否や収容所長を吊るし上げて殴ったりした。
 外地からの引揚部隊は、戦死・戦病死者の遺骨を持参する者が多かった。だが、終戦直後の汽車の混雑の中を持ち帰る者は少なく、その多くは収容所に預けられた。これら宙に浮いた遺骨は次々と溜まる一方で、1月26日の記事によれば浦賀だけでも3万1000柱あるという。
 昭和21年四月、佐世保引揚援護局に婦人健康相談所が設置された。満州や北鮮から引揚げる道中に強姦された不法妊娠の女性が対象となった。妊娠をせぬまでも、悪性の病気に冒されている者もあり、これらの人たちのために妊娠中絶や治療を斡旋するための機関であった。

 海員組合の闘争
 ここで終戦直後の海員組合の闘争にふれておこう。
 戦後の海員組合は神戸で昭和20年10月5日に発会式を行った ( 全日本海員組合 ) 。翌21年1月15日、組合は待遇改善を要求。船舶運営会回答で組合員の給与は3倍になる。横浜ではこの回答にも不満。これはバラックシツプ問題があったからだ。横浜はさらに待遇改善を要求したが、運営会はこれを蹴る。
 ところで戦後の日本の組合は2つの系統に分かれていた。社会党のバックアップする総同盟系。共産党のバックアップする産別系。海員組合は産別系に属していたから闘争方式は戦闘的であった。総同盟は産別の方針に反対で、第一回大会は昭和21年8月1日開催、産別会議結成大会は8月15日に開催された。
 GHQ はこのあたりから日本の組合運動に干渉してくる。コーエン労働課長は、産別会議が綱領を可決した日に出席して一場の演説を行っている。首切り続行との運営会の回答に組合は闘争を決意するが、GHQ が即座に船舶争議に警告をしてきた。
 組合は9月10日午前零時をもってゼネストに入ると決議。この頃、アメリカでも海員ストが始まって、ほとんどの船が動かなくなっている。当然、産別および日本共産党は、こうした政治的なタイミングを狙ったろう。さらに国内でも国鉄がゼネストを計画していた。陸と海の二大組合がゼネストをすれば、これは時の吉田自由党政府に大打撃を与えることは明らかであった。
 客観的な情勢はかくして整ったのだが、いざゼネスト開始の9月10日に至って、闘争委員長はゼネストを指令したのだが組合長がこれに反対するという事態が起こった。組合が分裂したわけだ。これは明らかに戦前の民社系の組合長と、戦後の革新系の闘争委員長との意識の違いからきたものであろう。9月11日、闘争委員長はついに組合長を除名してしまうが、翌12日に内務省警保局長が海員ストは違法だと警告してきた。ここにも GHQー自由党政府筋からの干渉が読み取れる。
 一方、産別は国鉄と海員ストに共闘を指令しているのだが、これは現実と余りかけ離れた指令のため実現不可能であった。だが海員ストと国鉄ストは、とりあえず当時の重大な社会問題であったから、これは国会でも問題となる。この間、海員ストは組合が二分したため停頓状態となったが、アメリカでは大統領が組合の要求を飲み、米海員ストは一気に解決へ向かった。
 九月14日、国鉄は解雇を撤回し争議は妥結したので、翌15日いち早くスト中止を指令したが、同日海員組合は既定方針どおりスト決行を宣言した。9月17日には、返還米船のスト船員告発という事態が起き、翌18日、横浜検事局はすべての返還船に対して出港の警告を発した。こうして海員ストは次第に体制側の突き崩しによって圧殺され始めた。翌年、有名な二・一ストに対するマ司令部の中止命令が出るが、すでにその半年前に日本の海員組合運動は危機に陥っていたのだ。9月19日になると、組合長と闘争委員長との聞に歩み寄りができた。同時に運営会側も首切り案を撤回したので海員ストは一気に解決、21日午前3時、協定に調印が行われた。
 復員の進捗状況
 敗戦の年の暮れまでの帰国者は、南鮮約33万人、華北1万人、比島1万人、南洋諸島約1,200人、このほか樺太、千島、満州・北朝鮮等から機帆船などで脱走してきた者3、4万人など、合計40万に上った。
 しかし、北鮮、満州、樺太、千島などの邦人100万余人の輸送は、鉄道の不通などにより遅々として進まず、またこの方面の将兵約60万人は、ソ連が不法にも捕虜としてウラジオ、ハバロフスクなどシベリヤ送りを行い、結局、約6万人に上る犠牲者を出す悲劇を生じ、多数の居留民も飢えと寒さのなかに年を越したのである。
 だが、こうした一部地区を除き、外地陸海軍将兵と在留民の引揚げは間断なく続けられGHQ の艦船貸与とあいまって著しく促進され、昭和21年6月下旬までの引揚者総計は、62万7702名に上り、残留者もソ連領内を除いては大体8月中には帰る見通しがつき、終戦から約1年で中国、比島、仏印、タイ、ビルマ、ジャワ、ボルネオ、ニューギニアをはじめ、南方各地域の邦人引揚げが完了する運びとなった。千島、樺太、北鮮、満州の各地に残留している邦人のうち、陸海軍将兵の大部分はシベリヤ方面に移送され、この引揚げはソ連政府の手中に握られていた。昭和21年6月末における残留者概数は、満州の175万人を筆頭に樺太32万人、朝鮮15万人、タイ・ビルマ11万人、ほか各地で合計約268万人に及んでいる。
 しかし、この年の9月になってハルピンからの第一陣がコロ島から博多へ上陸、10月以降、懸案だったソ連からの集団引揚げが始まり、舞鶴や佐世保、函館などへ連日のように復員船が到着、引揚者が続々と降り立った。この中にはソ連に洗脳され、共産主義万歳を叫ぶ兵隊もあれば、舞鶴埠頭で毎日帰還する息子を待ちわびる老婆の唄が涙を誘ったのも、この風景の中から生まれたものである。
 掃海艦のはたらさ
 この輸送が成功した裏に忘れてならないのは、掃海艦のなみなみならぬ苦労であろう。
 ( 日本では湾岸戦争後、海上自衛隊の掃海艇派遣をめぐって大きな議論が渦巻いた。しかし、敗戦直後、残存海防艦の何隻かは、多大の危険を冒しながら機雷を排除し、復員船の航路を切り開いたのである =編集委・注 )
 記録によれば、当時日本近海にバラ撒かれた機雷は6万1000個に上る。この掃海は昭和40年代まで続き、この間、触雷による艦艇、民間船の沈没、損傷や死傷者はかなりの数に上り、敗戦からの10年間に、艦艇は18隻、民間船は161隻が被害を受けたという。
 ともあれ、艦艇による復員は、当時4、5年はかかると算定されていたが、実際は2年足らずで終わった。 GHQ は「最大の要因は、艦船の驚異的な高稼動率を実現した乗員と関係者の熱意と努力にある」と、これを高く評価している。
  戦後、いわゆる戦記ものは沢山出版されているものの、この復員船の記録はまことに少ない。引揚船の記録を見ても「どこそこの港に集結、復員船で帰国した」と簡単に述べているだけのものが多い。家族が待つ故郷へ急ぐ復員者をよそに、外地へ向かって出発してはトンボ返りを続けた復員輸送の苦労話は、ほとんどといってよいほど日の目をみていない。
 そこで実際にこの業務に従事した者の、ほんの一握りかもしれないが、その経験の一部を綴ることにした。
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