本書を「珊瑚会」 ( 旧海軍経理学校生徒第35期 ) というクラス会の名で出版したいきさつと、本書の内容の背景となっている当時の事情は、現在とは大きく異なっているので、特に戦後生まれの読者の理解のため、ひととおりの説明を加えてまえがきとした。
「珊瑚会」について
戦後も46年を過ぎ、海上自衛隊の存在は一応知っているにしても、かつて威容を誇った日本海軍や、大東亜戦争については実感のわかない世代が多くなった。
昭和16年12月8日 ( 日本時間 ) 、日本海軍の精鋭6隻 ( 「赤城 」 「加賀 」 「蒼竜」「飛竜」「翔鶴」「瑞鶴」 )の航空母艦から飛び立った350機の海軍航空機が、アメリカ太平洋艦隊の根拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を急襲して、日本の命運を賭けた戦いが開始された。そして3年9カ月、総力を挙げての死闘の末に、昭和20年8月15日、昭和天皇の御聖断によって、日本は無条件降服の止むなきに至ったのである。全国焼土と化した中から、まさに玉音放送にある「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」奇跡といわれる経済復興を成し遂げた。
戦争放棄の憲法の下で、平和を謳歌している今日では考えられないような戦時色の濃い戦前の全国の中学校には、配属将校という軍人が派遣されており、軍事教練が正課であった。
したがって、中学生が当時の教育方針に則り、お国のためにと陸海軍の将校 ( 士官 ) を養成する軍の学校を志願した者は多い。海軍では、兵学校 ( 広島県・江田島 ) 、機関学校 ( 京都府・舞鶴 ) 、経理学校 ( 東京都・築地 ) という三校があり、これらを志願する旧制中学の4、5年生および浪人中の若者にとてては、かなりの狭き門であった。w
東京に所在する「海軍経理学校」は、その職務柄、受験年齢の制限が他の2校より2年長く ( すなわち、3浪まで受験できた)、また、近視でも差し支えない
( 裸眼で 0 ・2、矯正視力で1.0以上 ) ということや、採用人員が極めて少ないことと併せて一層の狭き門であった。
そうした中で、昭和17年8月、全国各地で採用試験が行われ、晴れて合格の電報を手に、同年12月1日、築地の校門をくぐった104名が、生徒教程の35期である。2年4カ月と短縮された訓練期間を経て、昭和20年3月30日に卒業、海軍主計少尉候補生として巣立ち、99名が第一戦へ配属された。このクラスの名称 ( 35期 ) にちなみ名付けた「珊瑚会」 は、固い団結のもと今日まで続いている。
ちなみに、同時に兵学校に入校、卒業したクラスは74期 ( 卒業者1,024名 ) で、「江鷹会」と称し、機関学校は55期 ( 卒業者318名
) で「たんご会」という。三校を合わせて海軍では、これを「コレス」 (CORRESPOND=一致する・相当する ) と呼び、このコレス会を「三鴎会」と名付けて交流を続けている。
海軍経理学校と海軍主計科士官について
海軍の主計科とは、艦艇や部隊など組織集団の、庶務・人事・給与等の事務と、被服・糧食・酒保物品の管理等を掌ることを本務としている。海軍経理学校の生徒教程は、この主計科の幹部である士官を養成するコースで、旧制中学出身者から選抜、3年前後 ( 数年前までは4年 ) 教育して卒業させ、さらに士官候補生として約6カ月、練習艦隊や実施部隊で実務を習得させたうえで少尉に任官させた。海軍で生涯を終わることが前提であるから、退官後の生活保障の意味もあって、養成人員も限られてした。
しかしながら、戦争に備えて拡大を続けた海軍の組織は、開戦と共に一層必要人員が急増したものの、養成に年月のかかる生徒教程ではまったく不足する状態であった。そこで、一般の大学文科系を卒業した者の中から、直ちに海軍主計中尉として採用し、約6ヶ月の実務教育をして送り出す制度(2年現役制度、一般に短期現役、略して「短現」と呼ぶ)が新設された。昭和13年7月1日入校の第1期35名から、昭和20年4月1日卒業の第12期917名まで、合わせて3,555名の主計科士官がこの制度から生まれ、海軍経理学校で訓育を受けた
( この間、受験資格について、専門学校卒業まで可とされたり、また入校・卒業後の身分などの扱いについても、見習尉官、少尉とするなど変遷があった
) 。
同じ時期の生徒教程出身者は、28期から35期までで、373名に過ぎない。当時は国民皆兵、男子はすべて徴兵検査を受けて、初年兵として軍隊に入ることが義務付けられていたから、大学・高専といった教育を受けた文科系出身者にとって、初めから士官として遇されるこの制度は、大きな魅力であった
( 理科系も短現制度があり、技術中尉となる道は開けていた ) 。
終戦内閣の米内光政海軍大臣が、これらの短現出身者は、日本復興の中心となるべき人材であるから、真っ先に復員せしめるよう指示されたのは正に慧眼であり、事実、ある時期、各省の事務次官がほとんど短現出身者で占められていたことがこれを実証している。
海軍経理学校では、このほかに、徴兵もしくは志願兵として海軍に入り、主計科に配属され、試験等によって進級、士官となる練習生コースもあり、この教育も行われていたが、この人たちが最も実務に熟達していた。
終戦と戦後処理 ( 復員輸送と機雷掃海 ) について
我々が卒業赴任した昭和20年3月末には、すでに米軍の大部隊が沖縄を攻撃中であった。同海域には、アメリカの空母22隻、戦艦20隻、巡洋艦32隻、駆逐艦83隻、その他多数の特殊艦船および、航空機1,163機という一大兵力が集結していた。これに対し、追い詰められた日本海軍の戦闘可能な艦隊としては、僅かに戦艦大和、巡洋艦矢矧のほか駆逐艦8隻の第二艦隊しか残っていなかった。
この残存艦隊が、飛行機の援護もない裸の状態で沖縄に向け、最後ともいうべき特攻出撃したものの、米軍航空機の前にあえなく潰滅、傷ついた駆逐艦4隻のみが辛うじて佐世保に帰投した。この作戦で我が軍は、6隻が撃沈され3,721名もの戦死者を出したのに対し、米軍は僅かに10機の飛行機を失ったのみという、悲惨な結末になった。そして程なくして沖縄は米軍の手中に帰し、それ以降、本土決戦に備えて全国各地の特攻基地で連日の空爆の下、猛訓練が行われているなか、8月15日を迎えたのである。
この間、我がクラスでは2名が戦死、残った97名が全員、最後のご奉公として復員輸送、機雷掃海の任務に従事した。各基地には、本土決戦のための資材、糧食等が物資欠乏のなか、相当備蓄されており、これが復員輸送、帰還者用に充当された。しかし一般市民の生活は衣食住全般にわたって極度の窮乏状態にあった。
したがって、内地の各部隊から一旦帰郷した元の乗組員たちが舞い戻った多くの復員艦では、規律は乱れ、糧食・被服等の管理責任者の立場にあった我々クラスの若き主計長たちの苦労は尋常ではなかった。
クラスの記録集出版と今回の本書出版について
我々は志望して海軍士官となり、終戦直前の昭和20年7月15日、主計少尉に任官していたことから、なんと戦後は公職追放該当者とされ、大学受験の途も閉ざされていた。しかし中央およびかつて海軍と縁の深かった大学教授諸氏のご尽力により、昭和21年2月、学生定員の一割以内という制限つきながらも、大学受験・進学の門が聞かれた。
復員輸送業務も、予想以上に順調に進捗しつつあったことから、新しい道を求めて大学進学を目指す者も出始め、昭和23年までには、35期生では47名が大学に進んだ。
世の中の落ち着きとともに、同期の桜というきずなが、クラス会というかたちをとるようになったのは自然のなりゆきであった。そうした会合での語り合いでは、当然のように復員輸送や掃海業務で味わった苦難話が多かったし、またお互いに知らなかった事実も少なくなかった。
昭和59年、お互いがそろそろ還暦を迎える年代となり、ささやかながらも我々の体験した事実を記録として残そうという気運が盛り上がり、同年11月『最後乃海軍士官』と題して、729頁にわたる記録集を出版した。その中で「復員輸送・掃海業務」という項目は、168頁に及んでおり、最近の中国残留孤児問題を連想させるコロ島からの輸送や、栄養失調の極限状態にあった人たちを乗せたフィリピン航路の話などは、貴重な史実といえよう。
私はここに本書が、我々の級友、故高橋辰雄君の遺志がこめられていることを語らなければならない。高橋君は復員後、東大文学部美学科に入り、昭和25年卒業、演劇の途に進み、民放開始後は放送作家として劇作や演出を手掛けていたが、彼は作家としての視点から、自らの体験も含めて、この復員輸送をテーマとした本の出版を企図していた。
彼はその前提として、昭和62年3月に、祖父・父・自分と親子三代にわたる海軍軍人の家系を素材に『桜と錨 | わがネービー三代記 | 』なる本を出版、引き続き平成元年11月、第2作の『護衛船団戦史ー日本輸送船団死闘の戦訓ー』を出版した。そしていよいよ、復員輸送を主題とする第3冊目の出版企画に着手し、資料の整理、関係者との文通・インタビューなど準備を進めていた。しかし不幸にして病魔
( 喉頭癌 ) に冒され、平成2年2月13日遂に不帰の人となった。
高橋君は生前、我々のクラス会報に「私にはどうしてもやり遂げたい仕事がある。復員輸送の出版、これを完成させなければ死んでも死に切れない」と固い意志を寄せ、声帯除去という苦境にありながら、企画まとめに情熱を注いでいたのである。ご遺族から伺ったお話や、残された資料から、彼の悲願とした「復員輸送」
についての構想の骨子が、目次に示されている。
我々は何とか彼の遺志を継いで出版の実現を図るべく、吉岡秀夫君 ( 復員後、慶応義塾大学ー朝日新聞社会部記者ーテレビ朝日報道局長・役員 ) にまとめ役を負ってもらい、出版の具体化に入った。しかし問題は、高橋君が作家としての立場で意図したと思われる構想の中には、第三者には扱い難い部分があることや、我々の知らない資料提供者への再取材の困難さ、さらには出版時期等の制約もあるので、追補などに限界があり、いささか彼と視点を異にする面のあることを、ここにお断りしておきたい。
いずれにしても、終戦という未曽有の事態に直面して、我々の体験した一側面の史実を世間にご披露することにより、いささかなりとも日本の今後を考えるうえで、意義あることを願う次第である。
平成3年11月
珊瑚会代表幹事 坂本克郎 (池上通信機副社長) |