日本商船団武器なき戦い 
 
 護衛船団戦史
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 元海軍主計少尉 高橋辰雄著(海経35期)
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 戦争体験の場としての護衛船団
 太平洋戦争における日本輸送船団壊滅の4つのピーク
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  戦後40数年を経た今日、戦争体験者のほとんどが60歳以上になっている。
 戦争は遠い過去の話になってしまった。
 第三次世界大戦がもし起こるとすれば・・・という話は、 SF の世界での話題になりつつある。予想としての第三次世界大戦は、太平洋戦争をはるかに上廻る大量殺戮を伴う核戦争となるだろう。はっきりいって、それは人類破滅の戦争となる。だが、現代ほど戦争に対する危機感のない時代もない。特にそれは日本において著しい。平和に馴れ過ぎたゆえであろう。
 太平洋戦争は、今となっては古典的な戦争となった。戦争体験者があの戦争で身をもって体験した話も、今となっては講談に出て来る大久保彦左衛門が元亀・天正の武勇伝を語るに似た時代錯誤を犯すことになるのかも知れない。だが、戦争体験は永久に伝承される必要があると私は考える。そのことによってのみ、私たちは次の戦争を回避することができる。
 だがさて、その戦争体験なるものはひと口ではとらえ難いものだ。多くの戦争体験者が語る休験談は微妙に異なっている。
 その理由の第一は、立場のちがいによって体験したものがちがうことだ。
 例えば、陸軍と海軍では戦闘様式がちがうから体験もちがう。兵種によってもちがう。階級によってもちがう。
 第二の理由は、時期によるちがいだ。
 日本は昭和6年の満州事変以来、中国大陸で戦闘状態に入り、日支事変から太平洋戦争へと突入した。このどの時期に戦争を体験したかによって、その内容がすべてちがって来る。
 第三に、場所によるちがいがある。
 おなじ陸軍でも、中国大陸で戦っていたときと太平洋戦争になってからの島嶼作戦とでは、戦闘形式が全く異なる。北のアッツ島やキスカ島での戦闘と、南のガダルカナル島やニューギニア島での戦闘では全く様相を異にする。
 このように、戦争の体験はその人の置かれた立場・時期・場所によってすべて異なる。これらのちがいは、その体験者が戦争から受けた印象をすべて異にするから、その話を聞かされた人の印象もまたちがって来る。おなじ戦争の話でも、ひどく楽天的であったり悲観的であったりする。戦争体験のない現代の人たちはきっと混乱するにちがいない。
 それならば、これら異なる立場の人たちがおなじひとつの場に集まるようなことは、戦争中なかっただろうか ?・・・ある。
 それが護衛船団である。
 輸送船が船団を組む。まず、その輸送船に乗って目的地まで運ばれる兵隊がいる。陸軍の兵隊だ。次に当然のことながら、この輸送船を運ぶ船員がいる。
 船団が組まれると、これを敵の潜水艦や航空機から守る護衛艦がつく。これは海軍の役目だ。また、各輸送船には、その船を守る船砲隊が乗り込む。陸軍の船舶砲兵だったり、海軍の砲術科の兵隊だったりする。
 更にこれらの輸送船は一般民間人も運ぶ。外地から内地へ引揚げる民間人などがこれだ。
 陸軍・海軍・民間と立場の異なる人たちが、ひとつ船に乗合わせることになる。「袖摺り合うも何かの縁」というが、これらの船団が南の海で敵潜や敵機の襲撃を受けて、大破・座礁・沈没する。それは立場の差と関係なく、おなじ体験となる。
 護街船団を戦争体験の共通の場として考えたいという所以である。
 だがここでも、立場や場所や時期のちがいが生死を分けることになる。
 輸送船の乗組員と輸送される兵隊とでちがうし、かれらが避難時どこにいたかによってもちがう。敵潜の魚雷が機関室に命中すれば、当然機関部員の命はない。また船舶の底の方に入れられた兵隊たちは、甲板まで上がって来るまでに船が沈没しなければ助かるだろうが、轟沈といって、魚雷が命中した途端、瞬時にして沈んだ船では、全員絶望だ。
 幸いにして、上甲板まで出ることができても、船が沈没するとき、救命艇に乗ることができるか否かによって、その後の運命がちがう。
 救命艇に乗ることができなければ、泳ぐよりない。泳いでも、救命胴衣をつけられたか否かによってまたちがう。海に入ったとき、船が沈んでその渦巻きに巻き込まれる人もいるし、護衛艦が爆雷攻撃をしたため、その水圧でやられる人もいる。
 このように、ひとつ船に乗っていても体験するところはすべて異なる。しかもその結論は生か死かである。こうなると、運命としかいいようのないものかも知れない。
 だが、おなじ船での戦争体験がどのようにちがうか?・・・それこそが本書の狙いでもある。
 その意味では、本書にはできるだけ異なった立場の人の証言を集めてみた。
 戦争体験を考える上で、次に忘れてならないものは「戦訓」ということである。
 体験というものはつねに教訓を遺す。戦場での体験は戦訓を生む。
 近代戦にあっては、新兵器が次々と顔をのぞかせる。もしくは、新兵器の出現によって新しい戦術が生まれる。戦場にいる者は、絶えずそうした新しい脅威の体験を積むことになる。自分たちが学んだ戦争技術にないものが現れるのだから、それはひとつの脅威だ。だが、それが次の犠牲者を救うことのできる戦訓となり得る。
 この意味で、戦争体験はつねに戦訓を含むことになり、戦訓はつねに体験によってのみ得られるものだ。  こうした戦訓の一例を示そう・・・
 緒戦以来、勝利を続けて来た日本軍が最初の蹉跌を味わったのは、昭和17年7月、ガダルカナル島に米軍が上陸して以後のことだった。
 米軍は日本軍の予想を上廻る兵力でこの島の飛行場を占領し、逸早く制空権を確保したから、日本軍の増援は容易ではなかった。
 当時、陸軍の船舶兵団参謀だった三岡健次郎少佐はラバウルへ飛び、その輸送状況をつぶさに調査した結果、次のような戦訓を得た。
  @ ひと月の内、月明期間はガ島に接近することができないから、輸送に使用
    できるのは半分
     の15日に過ぎない。
  A 一日のうち昼間はガ島に接近できないから、ガ島の敵飛行機の威力圏には
    日没後に入り、
     日出までに脱出しようとすれば、ガ島在泊期間は4時間に過ぎない。
  B 1万トンの優速船も、この4時間の間に揚陸できる量は、大発一隻につき
    240トンに過ぎ
     ない。
  C 輸送船団の損害は全体の2分の1から3分の1、しかも船団出動の回数は
    護衛艦不足のため極めて 制限されている。
 ・・・三岡参謀の得たこの戦訓は、ガ島補給が容易ならぬ事態であることを示唆している。にも拘らず、日本軍は戦力の逐次投入という最も拙劣な補給戦を継続し、多大の犠牲者を出した。戦訓が生かされなかった例といえよう。
 ガダルカナル島の悲劇は、昭和18年2月に行なわれた3回にわたる駆逐艦による撤収作戦によって辛うじて回避された。
 だがその頃、ニューギニア戦線でもガ島同様の絶望的な戦闘が続けられていた。当然、ここでも増援作戦が行なわれた。
 昭和18年3月1日、ラパウルからニューギニアのラエに進出しようとした第51師団の精鋭6,900名は8隻の船団に乗ってダンピール海峡にさしかかった。
 3月3日
 ・・・雛の節句の日だった。
 この日、船団はこの海峡で米空軍の潰滅的な攻撃を受けるのだが、このときの攻撃法はかつて体験したことのない新戦術であった。
 当時ここで沈められた愛洋丸船舶砲兵の中川武雄氏の受けた戦訓・・・
 ・・・このときの敵機は昨日とは打って変わった戦法と機数で迫って来ました。
 ざっと数えただけで100機に及ぶ大群で、その機種も雑多でした。各基地から寄せ集めたのではないかと思われますが、これが3段構えで低空からやって来ました。
 私たちは直ちに砲口を下げて射撃を始めましたが、真横からの攻撃なので火砲は一門しか撃つことができません。船橋の機関砲もおなじです。
 上空の高いところには友軍の直援機も30機ばかりいたのですが、完全に肩すかしを食らったかたちで、急降下しても船団援護には間に合いそうもありません。
 そうです、敵機はわが方の意表を衝いた訳です。敵機の攻撃法は、まず一番下の編隊が猛烈な機銃掃射で船団を圧倒し、その直後、上中段の爆撃機が爆弾を投下するという戦法でした。
 機体を離れた爆弾は水平のまま海面上に落下し、これが反跳して舷側に命中するという「スキップ・ボミング・・・反跳爆撃」で、これは今まで見たことのない爆撃法でした。一時は雷撃かと思われる衝撃を受けましたが、船速の遅い輸送船では転舵する余裕などとてもありません。船団は次々と撃沈され、ついには護衛艦も沈められてしまいました ::: 。
 ・・・この反跳爆撃という米軍の新戦法で、8隻の輸送船はすべて撃沈され、護衛艦も4隻沈められた。
 船団潰滅のニュースは逸早く輸送船仲間の間にひろがり、「ダンピールの悲劇」と命名されて怖れられた。軍もまたこの戦訓によって、従来の船団愉送の考え直しを迫られることになった。
 このような危険から船団を守るのが、護衛艦の任務である。
 この船団護衛はほとんどの場合、駆逐艦・海防艦などの小艦艇によってなされた。開戦前、日本海軍は船団護衛の研究も訓練もほとんど行なっていなかったから、これら護衛艦の艦長たちは実地の体験によって護衛法を体得した。すなわちこれが、かれらの戦訓である。
 昭和18年半ばから昭和20年5月まで1年10カ月の長きにわたって、海防艦対馬艦長を勤めた鈴木 盛中佐はその戦訓を次のように要約している。
 (一) 航海について・・・
  1. なるべく沿岸航法をとれ。
     海岸に接近して航行すれば、潜水艦は船団と海岸の問には潜れず、外側
     でしか行動できないから、護衛艦は一方だけを警戒すればよいからだ。
  2. 船団の航路は、一般商船の航路でないところを選んだ方がよい。敵潜は
     一般商船の航路で待ち伏せしていることが多い。
  3. 環礁の多い海域は敵潜に対して安全である。但し、夜間は避けた方がよ
     い。
  4. 敵潜の攻撃を受けた場合とか、暴風雨・濃霧・強雨の場合、船団は往々
     にして分散して単独航行をとる。
     そうした場合を予想して、船団が出発する前の船団会議で途中の集合地
     をあらかじめ打合せしておくとよい。
  5. 湾口や水道の入口には必ず敵潜が待ち受けているから、特に警戒が必要
     だ。
  6. 島陰や港口の広い場所に退避するときは、湾口外側を警戒する護衛艦を
     当番で決めておくこと。済州島で夜間に敵潜が湾内に潜入し撃沈された
     例がある。
  7. 出港前には必ず艦長・航海長・機関長・通信長は一堂に会して、輸送指
     揮官を中心に航海中の全般の打合せをする必要がある。
  8. 外地の出港地にはスパイがいるから、船団の行動は極秘扱いにするこ
     と。
     戦時中のシンガポールで、ドイツから秘密兵器を運んで来た日本の潜水
     艦が、出港直後に撃沈されたのはスパイの通報による。
  9. 商船士官は遠洋航海に馴れているから、船団の護衛艦長として最適であ
     る。
  (ニ) 敵潜の攻撃について
  1. 敵潜を発見したとき、最寄りの護衛艦は直ちにその地点に急行し、敵を
     制圧すると同時に、目標が本艦の直後に来るように回避すること。
  2. 船団の船が雷撃を受け航行不能になっても、敵潜の制圧がすまぬ内はこ
     れを救助してはならぬ。護衛艦の第一の任務は敵潜の制圧にあり、遭難
     者の救助は軍律上、二の次となるのは当然である。   
  3. 敵潜は船団の進む方向の前後左右で待ち構えているから、一方だけの警
     戒だけでなく前後左右の警戒が必要だ。
  4. 夜間、敵潜は雷撃ののち浮上して砲撃して来ることがある。故にこちら
     も直ちに砲戦できる態勢にあることが必要だ。
  (三) 敵機の来襲について
  1. 敵機発見の報が入ったら、艦長は艦を敵機の来襲方位に対して直角にな
     るよう操舵命令を出し、同時に戦速も加速すること。
  2. 私の体験では、敵機は左30度の方角から来襲するのを常とした。
  3. 敵機が来襲したら、船団はできるだけ分散せず集合して砲撃態勢をとり
     、護衛艦はその周囲を取り囲んで敵に集中砲火を浴びせかけるような隊
     形をとること。こうすれば敵機は迂闊に近寄ることができない。船団が
     バラバラになれば、敵機は個々に攻撃をかけてこれを全滅させるに至
     る。
     香港から内地へ向かった船団が敵機の攻撃を受けたためバラバラになり
     、結果として護衛艦まで各個攻撃の的となり全滅した例もある。
     日本海軍は之字運動を得意とするが、これもみだりに分散してやっては
     効果がない。これまた香港在泊中の日本の海防艦が敵機の空襲を受け、
     ある艦は岸壁に接岸したまま反撃し、ある艦は湾内を走り廻って反撃し
     たが、後者は撃沈され、前者は生き残ることができた。静止して冷静に
     迎撃した艦が効果的な反撃を加えることのできたよき例である。
  4. 護衛艦は必ずしも大型である必要はない。排水量1,000トン内外で
     、速力は23ノット程度で、簡潔にして優秀な装備のものが望ましい。
 ・・・戦争体験を考える上で戦訓がいかに大切なものかということは、これでお分り頂けたと思う。
 次に戦争体験を考える上で重要な二つの視点・・・戦略と戦術・・・について考えてみたい。
 戦争を遂行するにはつねに、戦略面と戦術面の二つの視点からの考察が必要である。
 戦略とは、戦争を巨視的に考える視点である。これに対して戦術は、戦争を微視的に見る視点である。当然、この二つの視点は異なるが、しかし同時に不即不離の関係にある。両者の視点のいずれかを軽視すれば、戦いは危うい。
 太平洋戦争のとき、日本軍の戦略面を受け持っていたのは大本営陸海軍部であった。陸軍では参謀本部、海軍では軍令部がその掌に当たる。
 そして戦術面を担当するのは、各方面戦場で作戦を遂行する司令官だった。陸軍では方面軍司令官だったし、海軍では各艦隊司令長官であった。
 この戦略と戦術の二つの視点間の誤差が日米両軍の勝敗を分けたといってよい。
 その例を示そう。
 大井 篤著『海上護衛戦』という本がある。この本は戦争中の海上護衛に関する著述としては、第一級の資料的価値を持つ本である。戦後すぐに出版されたが、今では新版も出て古典的名著となっている。
 大井元海軍大佐は戦争中、海上護衛総司令部に参謀として勤務しておられたから、日本海軍が海上護衛という戦略上重要な任務をほとんど軽視していた実情を、最もよく知っておられた。
 結論からいうと、日本海軍の首脳部は艦隊決戦で敵を撃滅することを最高命題と考え、船団護衛などという地味な仕事は二の次、三の次の問題だと思っていた。
 これに対して米海軍は、緒戦期こそ日本海軍と似たような考え方だったが、昭和17年半ば頃からは、船団撃破こそ日本の国力を消耗させる最も効果的な手段だとの確信を得ていた。
 すなわち、日本に勝つ戦略的視点をこの段階ですでに確保するに至ったのである。
 この間の事情を大井大佐は次のように述べている。:::
 ・・・米国艦隊撃滅ということが、寝ても覚めても日木海軍士官の頭を占領した結果は、「連合艦隊、連合艦隊」」とその整備強化のみが海軍々備の指標となった。
 日本の貧乏世帯で大国アメリカ海軍と対抗しようというのだから、全力を連合艦隊一点張りに集中せざるを得なかった。
 一方、米海軍も日本連合艦隊を西太平洋に撃滅することを方針としていたことは、あらゆる諜報から判断することができた。
 そして米海軍が日本商船隊の攻撃を、特に企図しているなどという気配はほとんど見られなかった。それが日本海軍をして、ますます連合艦隊一本槍で驀進させることになった ::: 。
 ・・・ここにひとつの大きな陥穽があった。日本の国力ということを考えれば、それはすぐに分かる問題である。そしてこれは現代でも、日米間の経済問題につながっている。
 日木は自給自足の国ではない。
 米国は自給自足の国である。
 この明白な経済上の格差は、今でこそ万人の認識するところだが、戦前戦中の軍人、いや一般人ですら無知であった。
 この点については、大井大佐も同書で次のように触れている。
  ・・・戦後、米国は戦略爆撃調査団を日本に派遣し、太平洋戦争に関する軍事・政治・経済などのあらゆる面について調査をした。
 その報告書に次の一文がある。
 「日本の経済および陸海軍力の補給を破壊した諸要素のうち、単一要素としては船舶に対する攻撃がおそらく最も決定的だった」
 海軍のオフステイ中将は言う。
 「太平洋でのわれわれの敵日本は、島国で、しかも工業化された帝国であった。それはほとんど完全に国外資源に依存する国家だ。敵日本はこれらの原料を本国に輸送し、工業機械によって生産を続けさせなければならなかった。そして次にまた船舶愉送によって、その製品を遥か遠くの外方防衛線に駐屯する軍隊に運んでやらなければならなかった。
 以上のような状況において明らかなことは、米国側が有効な脅威を加え得る戦略目標は、日本の海上交通線しかないということであった。
 そして一旦この海上交通線が破壊されたら、日本の軍事力は不可避的に崩壊せざるを得ないのである」
 次に経済部門を担当したコーエン博士は述べている。
 「この戦争は乗るかそるかの大賭博であったが、日本は船舶事情をろくに顧慮せずに着手した。だが米国人も、日本が極度に原材料を輸入に依存しているために経済封鎖をすれば忽ち国中が飢えてしまうという事実を認識していなかった」・・・。
 ・・・米軍戦略の中枢を受け持っていたオフステイ中将とコーエン博士の発言は、開戦当初に米軍が当然知っていなければならなかったことを知らなかったという痛烈な反省から来た発言である。だが、おなじことは日本側にも言える訳で、要するに日米双方ともに相手国の実情に疎かった訳である。
 戦争がインフォメーションの戦いだということは第二次大戦から言われ始めたことだが、米国はこの点で、日本よりひと足先にこの重要な事実に辿り着いた。
 米軍が日本輸送船団に潰滅的打撃を与え始めたのは、ガダルカナル攻防戦からである。
 日本軍は一木・川口支隊という小部隊をガ島に投入したが、米軍は大部隊で同島を制圧していたため、続く日本の第二師団5,000名も木ッ葉微塵に粉砕された。
 ところでこのガ島をめぐって海戦が行なわれるのだが、その勝敗についての評価が日米双方で全く食いちがった。戦略的見地と戦術的見地のちがいを示す典型的な例だと思われるので、それを紹介しよう。
 第二師団がガ島飛行場に突入するというので、近藤信竹中将率いる日本艦隊もこれに呼応して同飛行場に砲撃を加えるため出撃した。
 強気のハルゼー提督は、キンケイド少将の率いる空母エンタープライズとホーネットを基幹とする機動部隊に迎撃を命じた。
 ここにおいて日米航隊の海戦となったが、日本側はこれを「南太平洋海戦」といい、米国側は「サンタクルーズ諸島海戦」といった。
 結果は、米軍側はホーネットが沈役、エンタープライズと駆逐般4が大破、戦艦サウスダコタが小破。これに対して日本側には沈没艦なく、空母翔鶴と瑞鳳が大破、重巡筑摩と駆逐艦2が中破した。
 ほぼ相討ちの結果だが、大本営は海軍の大戦果と発表した。第二師団の攻撃が失敗したあとだっただけに、陸軍は面日丸潰れだった。
 だがこの戦果に対して、米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督は戦略的見地から次のような見方をした。
 ・・・戦術的に見れば、サンタクルーズ諸島海戦とよばれるこの戦闘で米軍は敗退したが、これを長い眼で見ると米軍の戦略的な勝利となった。
 近藤中将は100機を失い、キンケイド提督は74機をなくした。このちがいは数字そのものが示す以上に、日本側に不利であった。というのは、米国は急速に増大するパイロットの訓練と飛行機の生産計画によって、速やかに日本を凌駕できたからである。
 米国艦隊は高い代価を払って重要な戦略的利益を得たけれども、当面の情勢から救われたのはガダルカナルにおける米国の陸兵と海兵隊であった。
 日本軍の攻撃が次第に強くなり、ついに26日 ( 南太平洋海戦の日 ) にそれが弱まるまで、かれらはしっかりと戦線を保持していた。ヘンダーソン飛行場は米軍の手中に確保され、日本軍の死傷者は米軍の約10倍に達した。
 もはや日本の地上部隊は重大な脅威とはならないであろう ::: 。||
 ・・・ここでニミッツは決して負け惜しみを言っているのではない。戦略的見地と戦術的見地の違いを言っているに過ぎない。
 日木はこの海戦でトラの子のヴェテラン・パイロットたちと飛行機を失った上、その補充に苦しむことになる。米国側はこの頃から航空機の生産が飛躍的に増大し、パイロットたちの訓練も板について来ていた。ニミッツはこの戦略的有利さについて言及している。大本営発表が戦術的見地のみを過大視したため、戦局全般についての判断を見失っているのと好対照である。
 さて、私がこの序文においてすでに言ったことを要約すると、次のようになる。
 @ 戦争体験はこれを体験した人の立場・時期・場所によって異なる。この三つ
   の条件を備えた場として 、私は護衛船団という場を考えてみたい。
 A 戦争体験には、つねに戦訓という要素がついて廻る。殊に船団を安全に航行
   させ、自らも被害なく退避するには、この戦訓を生かした航海・戦闘技術が
   必要である。
 B 戦争体験を巨視的に見る視点と微視的に見る視点がある。前者を戦略的視点
   、後者を戦術的視点 とする。この両者のバランスが失われると、戦争体験
   についての正当な評価ができない。
 ・・・いってみればこの三つの要素は、視点の問題である。
 私はこの新しい視点から、もう一度、護衛船団という戦争体験を見直してみたい。
 冒頭にも触れたように、戦後40数年を経過し昭和も平成となった現在、太平洋戦争について語ることは次 第に難しくなって来た。
 その理由は、この40数年の間に公刊戦史をはじめとして、数限りない戦史・戦記が出廻ったためである。おまけに、かつての敵国だったアメリカが日本側の戦争資料にない極秘資料を公開し始めたことにもよる。  すなわち、太平洋戦争について語り継ぐべき史料や体験はほとんど出尽くした感がある。なにを語るかの段階はもはや過ぎて、これからは、いかに語るかの時代に入ったのではないか。
 その意味で、戦記ものが新しい時代の要求に応え得るには、次のような条件を備えている必要がある。
  @  現在まで公開されなかった極秘資料が公開されるとき。
  A  全く新しい視点から従来の戦争体験を叙述できたとき。
  B  戦争を知らない世代が読む新たなロマンとしての戦記が現れたとき。
 ・・・従来の戦記ものには、個々の戦闘や戦場での体験を記したものが多かった。だがそれだけでは、単なる戦術的見地からの体験記に留まってしまう。より広い戦略的見地からも、もう一度その体験を洗い直してみる必要があるだろう。
 その意味では、何度も言うように、あらゆる立場・時期・場所での戦争体験の綜合化が必要である。
 以下、このような観点から護衛船団というものをとらえ返してみたい。
 太平洋戦争における日本愉送船潰滅史には、4つのピークがある。
 1、昭和17年7月、日木海軍の飛行場設営隊の進駐していたガダルカナル島
   に、米海兵隊が大挙上陸して来たときから始まったガ島攻防戦をめぐるソ
   ロモン海域での日木輸送船の消耗。これには、時期をおなじくして始めら
   れたニューギニア輸送作戦も含まれる。「ダンピールの悲劇」はその最大
   の潰滅記録だ。昭和18年2月、ガ島で飢えた将兵の撤退作戦が始まる。
   これは駆逐艦による撤収作戦だから、輸送船による船団輸送とは異なるが、
   これまたガ島輸送作戦の一環としで考えたい。これら一連のガ島愉送作戦
   からニューギニア輸送作戦までの船団潰滅が第1のピーグ。
 2.昭和19年2月17日のトラック島大空襲は、日本海軍の驕りたかぶった
   態度を根本から突き崩した。日本連合脈隊の根拠地だったトラッグ島は、
   この空襲で潰滅した。たしかにこのとき、日木海軍の主力艦隊こそいなか
   ったが、多数の日本輸送船がここで潰滅した。
   そしてこの段階では、そのことの方が日本軍にとってショッキングなニュ
   ースだった。日木の船舶喪失畳は鰻上りに上がっていた。トラックの悲劇
   はサイパンの悲劇へとつながる。昭和19年6月、米軍はサイパン島に上
   陸を開始、ひと月後にはサイパン玉砕となる。東条内閣はこのため瓦解す
   るが、この間に潰滅した日本輸送船の消耗率は最高に達した。ここが第2
   のピーク。
 3.昭和19年10月、米軍はレイテ島に上陸・・・これに対して日木軍は九
   次にわたるレイテ島輸送を繰り返したが、これまた絶望的な消耗に終わっ
   た。米軍はその後つづいてルソン本島に上陸・・・内地〜比島間の魔のパ
   シー海峡での絶望的な輸送船団の消耗。ここが第3のピーグとなる。
 4.米軍は内地封鎖作戦を実施・・・このため日本輸送船団は外地への輸送よ
   りも内地周辺で消耗して行った。殊に昭和20年3月、下関海峡に B29
   から投下された機雷のため、瀬戸内海をはじめとする国内輸送も思うに任
   せず、ついに敗戦を早めた。これが最後のピーク。
 日本はまさに、敗けるべくして敗けた。日本輸送船団潰滅の歴史が、その事実を明白に証明している。
 
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