平和の条件
 
元海軍主計少佐 陸上自衛隊陸将補
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 36期主任指導官 計見良雄著(海経23期)
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 はしがき
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  一年余り前に、毎日新聞社で、「日本の選択」という題で懸賞論文を募集したことがありました。私は、「日本の選択」ということであれば、日本民族の独立と平和のために、いかなる途を選ぶべきかということが、当然にテーマになるべきだと考えたので、年来抱いている卑見をまとめて、応募しました。
 私の書いたものは没になり、同じ問題を180度逆のアプローチで論じられた佐橋 滋氏の論文「平和の戦略・・・実験国家への道」が入選になったのであります。180度逆の方向と申しますわけは、佐橋氏の論旨は、非武装中立 ( 佐橋氏は非武装に関連して取るべき外交姿勢が中立であるとは言っておられないけれども、非武装であれば当然に中立か、少なくとも非同盟であろうと推察します ) と思われたのに対して、私の意見は、武装中立ということになるからであります。
 私はそこで、没になった旧稿に手を加えて世に問うてみる決心をしました。それは、佐橋氏に対する反論という目的では毛頭なくて、このような重要な問題について、全く逆の方向から論じた議論というものも、国民の自の届くところに提供されることが必要だと思うからであります。
 私が本書を世に送る決心をした直接の動機は以上のようなことでありますが、私はずっと以前から、わが国では、正しい基礎の上に立った、合理的な防衛論議が、もっと活発に行なわれなければならないということを痛感している者であります。毎日新聞の「日本の選択」に応募した理由も、もとはといえば、そういうところにあったわけであります。
 私は、わが国の国会の内外、言論界、さてはマスコミ等で行なわれている防衛論議を聴き、あるいは読んで痛感しますことは、兎角合理性を欠き、将来に対して真に有益な示唆を含んだものは、残念ながら多く見掛けない、極言をしますと、失礼ながら、不毛の論戦が多いということであります。そして、わが国における防衛論議をかくも不毛にしている原因は、いろいろあると思いますが、特に次に申し述べます六つのことがらが、大きく影響していると思います。
 その第一は、旧軍についての悪いイメージが悪霊の如くつきまとって、軍事問題を正常に考察することを心理的に妨げていることであります。
 マッカーサー元帥の陳述によれば、わが国の憲法に戦力不保持条項が入ったのは、当時の幣原首相の意見によったものだということです。これは、私の推測では、もともとアメリカ側の案に、すでにこの条項が盛られであったところに、幣原さんがそのような申出をされたので、そのことを都合よく利用したのだろうと思います。幣原さんは、長い間外交官として、軍のやったことの後仕末に苦労してこられたから、軍人さえいなければ戦争はないものをと思われたことは推測に難くないのでありますが、私は幣原さんの平和主義というものを高く評価しつつも、軍人さえいなければ、軍隊さえなければ、という考え方は、国の大事を考える場合に、余りにも素朴に過ぎるものと思います。しかし、これはひとり幣原さんだけでなく、多くの人がこのような先入観のとりこになっていると私は見ています。
 その第二は、昭和25年の警察予備隊創設以来わが国の防衛力整備の過程において、アメリカの影響が強かったために、一方には、この他力本願の惰性から脱し切れない人がいる反面、逆に拒絶反応が強すぎて、すべてをアメリカの押し付けだと決めつけて、排撃しなければ止まないという人がいる。つまり、方向は両者お互いに逆だけれども、アメリカというものを離れて、自主独立の立場で考えることができない点では共通な欠陥があることであります。
 第三は、日本の政治家には、高いレベルの軍事は政治の責任であるという自覚ができていないことであります。そうでありますから、例えば、シピリアン・コントロールというようなことを口には出すけれども、その言っていることを注意して聴いてみても、問題の全体についての確固たる政策をを持っておらない、ツマミ食い的な論としか受取れない者ばかりであります。
 第四は、国土が大陸から隔絶して島国である関係上、国民性の上で、欧州の諸国のように、民族の独立とか、国の安全ということについての意識が深刻でないことであります。海が我が国土にとって防壁であることは、間違いないことでありますが、軍事技術の進歩によって、その価値がいつまでも不変ではないと思います。
 第五は、過度のセクショナリズムであります。本来、軍事・外交の問題は、党派争いの具にしてはならないことがらであると思うのですが、国会における野党が万年野党である関係からでしょうか、国会の論戦の模様を聴いていると、議論の焦点が問題の本質を離れて、専ら相手を倒すためのゲーム主義に堕するために、話す方も言葉尻をつかまれないように、ヌラリクラリと逃げ廻らざるを得ないというわけで、そこからは、とても建設的な意見というものが生れ難いのであります。
 最後に、核の問題が、わが国では、タブーになっていることであります。核兵器がすでに実在のものとなっている今日では、あらゆる武力紛争は、常に潜在的に核の条件の下で行なわれていると考えることが、理論的に至当であります。そうでありますから、核三原則を唱えることはまことに結構でありますけれども、そのためにも、核兵器が軍事的に実際問題としてどういう意味を持っているかということを掘り下げて認識するのでなければ、折角の三原則が単なる三猿主義に陥ってしまう危険があるのであります。わが国の現状では、核兵器について、少しでもその本質にふれた議論をしようとすれば、「何が何でも反対」という声によって圧しつぶされてしまう。これは、正にタブーであります。タブーのあるところに、合理的な討論は生れません。
 私は、以上六つのバイアスを乗り越えて、この論文を書いたつもりであります。
 わが国の武装・非武装を論断する上で、核兵器についての認識と、将来の戦争様相についての予見が決定的な分れ目になると思いますので、私は、核兵器については、その軍事的な意味の全貌が読者にご理解できるように努める一方、将来の戦争様相については、最もあり得る公算の高い姿で描き出したつもりであります。けだし、戦争になれば原水爆がすぐにでも登場し地球上の生きものは大半死滅する、いわゆる「ピカドン一発で何も彼もオシマイ」式の説ほと、人を誤らしめるものはないからであります。それは、無謀な戦争を起こさせないための警告としては、一応意味はあるとしても、民族の運命を決める、非武装か武装かを決める前提としては、不健全であり、虚偽に満ちたものであります。
 核兵器について、私は、一方では核を制するものは核に如かず、という法則を打ち出しながら、他方では、日米安保条約による、いわゆる核の傘はなくなっても構わないと述べているところは、一見矛盾のように思われるかも知れませんが、注意深く読んで頂けば、そのつながりは分っていただけるかと思います。実を言いますと、この点は、昨年、毎日新聞に投書した懸賞論文とは、違っているのであります。昨年の投書では、安保条約は全面廃止とせずに、核抑止力の提供だけを残したものに改めて存続することを提言したのでありますけれども、深く考えてみると、アメリカの核抑止力に期待できる度合いは、条約があっても、なくても、差がないということが分りますし、なまじかな形で条約を存続することが、却っていろいろの意味で害の方が多いと信ずるに至ったからであります。ただ、この点に関連して、核防条約の批准に関連して、別の条約を取り付けることを提言しておりますので、わが国の同条約批准も間近に迫っているような印象を受けておりますので、本書の第八章だけでも、政治家諸公に早急に読んでいただきたいと願っております。
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