連合艦隊
 
サイパン・レイテ海戦記
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 元海軍主計中尉 福田幸弘著(海経34期)
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 解  説   秦  郁彦
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       沈む艦は悲し
   墜ちる機は空し
   乗れる人は哀れ
と著者の献辞にあるように、この本はレイテの海に沈んだ一万人の連合艦隊将兵対する鎮魂の賦であると同時に、「史上最大規模の海戦」に関する第一級の史書でもある。
 著者はこの海戦に20歳の海軍主計少尉として、重巡「羽黒」に乗り組んでいた。戦前期の少年なら、やや後ろに傾いた太い煙突と、鋼塊を積み上げた檣楼を持つ一万トン巡洋艦の精悍な風姿に胸をときめかした人も多かろう。しかし著者が全盛期の帝国海軍を象徴するこの巡洋艦に配置を得た時、肝心の大日本帝国は坂道をころがり落ちるような勢いで、敗戦の渕へ直進しつつあった。
 往年のスパルタは、青壮年の全員が戦士であることを義務づけられた軍国主義国家だった。そのスパルタにも似た戦争国家日本が、1945年を境に一転して平和国家に変貌したのも夢のようだが、著者の略歴を見ると、小学校入学が満州事変、中学入学が日中戦争、海軍経理学校入学が太平洋戦争勃発の年に当たっている。わが国にもこういう世代があったのだな、という感慨を覚えずにはいられない。
 その一人である著者は3日にわたる激闘の間、戦闘記録係として終始艦橋に立ち、戦い終わって「通風筒に頭をあてると死んだように寝入ってしまった ( 328ページ ) という。
 この戦闘記録を基に作成された「羽黒」の戦闘詳報は幸いに滅失を免れ、30数年後に著者がレイテ海戦記を書く時の骨格となった。一人の人間が見聞しうる範囲は限られ、まして記憶は風化しやすい。あとで触れるように、レイテ海戦には今も謎のまま残されている問題点が少なくなく、それらをめぐって関係者や史家の論議が絶えない。その論拠が、ともすれば不確実な記憶や先入感や米側資料に影響された後知慧におちいりやすいことを知る著者は「戦闘記録の信憑性を疑って、個人的な記憶や日記に頼ることは危険」 (144ページ〉として、原典( 日本側の公式記録 ) の見直しを強調する。
 敵弾雨飛のなかで戦闘記録をつけ、詳報をまとめた著者にはその正確性についての自信と信頼があり、「羽黒」を軸に他艦や栗田艦隊の戦闘詳報をつきあわせながら核心に迫る手法は着実かつ精密で説得性がある。もちろん詳報に欠けた部分についても当事者の陳述や各種の資料を併せ、多角的な考察を怠っていない。
 総じてこの本には戦闘記録係としての冷静な観察眼が光り、参加者としては珍しく感傷の影が薄い筆致となっている。これは著者の意識的な努力によるものであろうが、他方、20歳の青年士官としての赤裸々な実感を求める人にはやや物足りぬ思いが残るだろう。
 さてレイテ海戦の錯綜した全貌を描き出すには、プルタルクの筆力を必要とするだろうが、紙数の制限もあり、ここでは超圧縮した戦闘経過の概要と、主要な論争点に関する著者のアプローチを紹介し、解説者 ( 秦 ) の私見を若干加えるにとどめたい。
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 著者のあとがき
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  日本海軍は3年8カ月に及ぶ太平洋戦争において、544隻の艦艇〈うち戦艦8、空母19、重巡15、軽巡20 、駆逐艦224、潜水艦127 ) 、航空機21,998機、人員45万7800名を失い ( みすず書房刊「現代史資料39−太平洋戦争 5 」の付録3による ) 、全滅に近くなるまで戦ったが、海軍が、そして日本が、事実上の敗戦に追い込まれたのは、昭和19年6月以降の半年間であり、この間に戦われたマリアナ沖海戦 ( 同年6月〉と、それに続くフィリピン沖海戦 ( 同10月 ) が日米海軍の、更には世界海戦史上、最終の海戦となった。マリアナ沖海戦〈サイパン沖海戦 ) において空母航空戦力を、フィリピン沖海戦ハレイテ沖海戦 ) において水上砲撃戦力を失った連合艦隊は、フリート ( 艦隊〉としては存在しなくなったし、マリアナ沖海戦で中部太平洋のサイパンを失って、本土侵攻の途を開かれ、またフィリピン沖海戦でフィリピン失陥をまねいて、南方からの補給路を遮断されたことによって、日本の敗戦は決定的なものとなった。
 昭和19年3月、築地の海軍経理学校 ( 第34期〉を卒業した筆者は、直ちに重巡洋艦「羽黒」乗組としてこの二つの海戦に参加したが、この2海戦、特にレイテ沖海戦の印象は衝撃的なものであった。20歳での、短い期間のこの体験は、37年後の今日まで鮮烈な思い出として生きているが、たまたま入手した、当時の「軍艦羽黒戦闘詳報」がなければ、その記憶もあいまいなものとなっていたことであろう。戦闘記録担当として自分で書いたレイテ沖海戦の戦闘記録を手元に持っていたことが、当時の詳細な状況を再現して書き残したいという気持ちとして続いていた。また、生き残った人も次第に少なくなってきたこの頃、出来るだけ客観的な記録を残しておくことは、フイリッピン沖で戦死した多くの戦友に対する責任であるとの思いも次第に強くなっていた。そして、戦後、米側の史観によって歪められてきた南雲、栗田、西村といった悲劇の提督を再評価したいという気持ちがあった。
 拙稿は最初、「ファイナンス」(大蔵省広報誌)誌上に「栗田艦隊反転の謎」として連載され(昭和54年7〜11月各号)、次いで「マリアナ沖海戦」(55年5.7.9月)「サイパンからレイテまで」(56年2〜4月各号)と続いたが、本書をまとめるに当たっては、右の掲載分のうち「栗田艦隊反転の謎」を大幅に書き改めて、マリアナ沖海戦からフィリピン沖海戦までを一連の最終作戦としてとらえ、各方面の戦闘が互いに関連しながら進展する総合的な特攻海戦が、焦点のレイテ湾口で反転挫折するに至った歴史の急流を、出来るだけ実証的に記述するよう努めた。この作戦の枢機に参画した方々や、各方面での実戦経験者、それに軍事専門家からみれば未熟で不完全なものかもしれないが、今後、関係者の叱正を待ちたい。筆者自身、事実を解明できなかった点があり、また、指揮官の行動にも合理的には理解できなかった面がのこされている。一つの事実にも多面性があり指揮官の判断にも多くの解釈が成り立ちうることに迷いを感じたが、これが、想像を絶する戦場での実相というものではなかろうか。
 ちなみに、本書は主題からいって書名を『連合艦隊の最後』とするのが最も適当と思われたが、既に伊藤正徳氏の同名の名著があるので、あえて『連合艦隊』とし、「サイパン・レイテ海戦記」を副題とすることとした。「連合艦隊」という一般的な題名を用いたが、「最終段階の連合艦隊」を意味していることをお断りしておきたい。
 この連合艦隊の最後は、今日に通ずる多くの戦訓を含んでいるように思われる。旧弊固陋な伝統的思考の打破、命令系統の統一と目的の明確化、トップの適時適切な状況判断と孤独な決断、それを左右する情報の質と量、内部機密の保持、ラインとスタッフの調整と責任の所在、関係ライン相互間の協力関係、新技術の優位等々の重要性についてである。
 執筆に当たって記述の正確さを期するために、防衛庁防衛研修所戦史部の多くの資料を調べさせていただいたが、その際、大きな助けとなったのは、逐次完成をみていた同戦史部の労作、『戦史叢書』である。作戦及び戦闘に関係あるあらゆる原資料に基づくこの公刊戦史は、本大戦の大きな遺産であり、それを如何に生かすかは、それを利用する側の責任だと考える。
 最後になったが、本書の成るに当たっては内外の貴重な著述と多くの人々の助力に負うところが大きい。とりわけ戦史部で懇切極まる応接をいただいた吉松正博氏 ( 海兵71期〉、戦史叢書からの多くの転載を許された水間研修所長、小岩井戦史部長には厚く感謝する次第である。また、大蔵財務協会の石川秀雄氏及び時事通信社の元井正敏氏の熱意には感銘をうけた。改めてお礼を申し上げたい。」
 太平洋戦争の運命を決した大戦闘としては、ミッドウエイ海戦、ソロモン攻防戦、マリアナ沖海戦などが数えられるが、解説者は1年半のソロモン戦で体勢が決し、やや誇張していえば、その後の日本にとっては自滅戦、米側から見れば残敵掃蕩戦へ移行したと考えている。
 レイテ海戦はいわば剣ケ峰に寄られた形の日本が、最後の組織的戦闘になるとの認識に立ち、陸海軍の全力を注入した決戦で、小磯首相は「レイテこそ天王山」と呼号した。
 投入兵力は地上軍約50万、飛行機約1,000機、これに連合艦隊の残存水上部隊のほぼ全力で、マンモス戦艦「大和」をふくむ戦艦9、空母4、重巡13、以下計63隻を数えた。
 これに対し、進攻してきた米艦隊は正規空母だけで9隻、商船改造の小型空母が26隻で、平均して三倍以上の優勢であり、特に空母搭載機数では10倍以上の格差が開いていた。
 マリアナ沖海戦で艦上機の大部分を失っていた日本海軍は、飛行機を積まぬ空母から成る小沢艦隊、を囮として、 本土からレイテ沖に南下させ、ハルゼーの正規空母群を引き寄せる間に栗田艦隊と西村艦隊をレイテ湾の北と南から突入させ、湾内の米上陸船団をげき滅する計画を立てた。
 立案した大木営も「十死一生」の悲壮な覚悟であり、通説も特攻戦法に近い無謀ななぐりこみ戦法だと悪評だらけだが、解説者は比島の基地空車が適切に協力できれば何とか五分五分で戦える条件はあった、と考えている。米側には基地空軍を欠く弱点があり、しかも日本軍が総力をあげた反撃に出ることを予期していなかったからである。
 1944年10月20日、第七艦隊に護衛されたマッカーサーの米軍はレイテ島東岸に上陸を開始したので22日栗田・西村両艦隊は北ボルネオのブルネー湾を出撃、レイテに向かった。進撃の途中、空襲で戦艦「武蔵」を失うが、小沢艦隊は幸運にもハルゼー艦隊を吊りあげた。西村艦隊は24日の深夜、待ち伏せした第七艦隊戦艦群に痛撃されて全滅するが、いずれも囮としての役割を100パーセント果たした。 
 かくて栗田艦隊は25日朝、何の妨害も受けずレイテ湾北東洋上へ進出したのだが、湾内突入に先立って米護送空母群と遭遇、これをハルゼーの主力と見誤って2時間以上も追いまわした。
 大和」の46センチ砲が水上艦に巨砲を放った唯一の機会であったが、砲撃の成果はあまりにも貧弱だった。
 「羽黒」と「利根」は最先頭を走って、湾内まであと1時間というところで、司令部から反転命令を受ける。著者はこの時の印象について「全く唖然とした空気と、正直なところ何か安堵の空気が流れた」(266ページ)と率直に記す。
 栗田長官としては、追撃を打ち切り、隊形を整理して湾内に突入するつもりだったが、しばらく迷ったのち、12時26分、南西方面艦隊から通報してきたとされる北方約70カイリの「ヤキ一カ」地点の空母群(実は存在しなかった)に目標を変えるため反転し、そのまま離脱帰還した。
 小沢・西村の兩艦隊を犠牲にして目標のレイテ湾に突入することなく反転したのだから、戦後栗田長官に辛らつな批判が集中したのは止むを得ないところだ。
 栗田中将はついに弁明しないまま昭和52年に他界し、機微の事情を知る唯一の生存者である大谷作戦参謀も黙したままであるだけに、「謎の反転」をめぐる憶測はふくれあがる一方である。
 「栗田司令部は臆病風に吹かれたのだ」「ヤキ一カ電は偽造にちがいない」「戦闘詳報は改作されている」「重要通信の不達は太陽黒点のデリンジャー現象による」「米側の偽電にひっかかったのだ」など乱立する諸批判を著者は克明に検討して行く。
 結果的に著者は栗田長官にやや好意的な見方を取って、ヤキ一カ電は存在したらしい、重要通信の不達のものがあった、米側の偽電もなかった、と推論する。だからと言って、反転を肯定するわけではなく、突入あるのみだとする見解なのだが(このあたり反転で生還しえたと自認する筆者の複雑な思いがこめられている〉、解説者が目を開かれる思いをしたのは、栗田艦隊が米護送空母群と不時会敵しなかったならば、「レイテ湾への突入は予定通り行われたであろう」として「期せずして栗田艦隊の目をレイテ湾からそらす囮としての役割を果たした」(314ページ)と鋭く指摘した点である。
 「戦争は錯誤の連続」と言われるが、それは後知慧では及びもつかぬ当事者の心理的錯誤の問題に帰着する。事実ハルゼーも錯誤し、栗田も錯誤した。しいてその差を言えば、後者には軍令部や連合艦隊司令部などの錯誤が相乗的に結びついていることで、日本海海戦を逆転させたに等しい一方的な敗北の構図はここに起因したとも言えそうだ。
 解説者は著者が最新の時点で集大成したいくつかの重要な論点におおむね同意する。だが、栗田艦隊の反転は事実上は「羽黒」への反転命令が出た時から始まった、と判定しているので、栗田長官への評点はもう少し辛くなる。戦意が急速に衰えつつある時点に「ヤキ一カ電」は反転 ( 退却〉の引き金となったのではないか。
 また、レイテ湾に突入したとしても、その戦果はおそらく貧弱なものに終わり、場合によっては第七艦隊戦艦群に返り討ちを浴びる結末となったのではないか、と想像している。
 この戦艦群との対決を避ける方向へ、栗田中将が針路を定めた深層心理を窺うのは、もはや不可能に近いのかも知れぬ。
 昭和の日本海軍は三代の蓄積を経て、ある意味で洗練の極に達した。この本に登場してくるシーマンたちの何気ない点描に解説者はその思いを新たにしたが、それは野性味溢れる当時の米海将たちとは対照的である。
  レイテ海戦はまことに連合般隊葬送の場だったのである。
         昭和56年5月4日、 鈴木総理訪米出発の日に記す。著者
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