体験的海軍興亡の物語
 桜 と 錨
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 海軍主計少尉 高橋辰雄著(海経35期)
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 あとがき
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  私が生まれてはじめて書いた芝居は、「父のせりふ」という一幕ものの芝居であった。
 昭和22年ころのこと。
 当時、私は劇作家久板栄二郎の「戯曲シナリオ研究会」で劇作の勉強を始めたところだった。おなじ研究会には、三国一朗、長谷川公之、橋田寿賀子などがいた。
 「父のせりふ」の登場人物は、年老いた父親と息子の二人だけである。しかも、息子はほとんど喋らず、おやじだけがもっぱら一方的に喋る。かれは戦後の農地開放によって不在地主と見なされ、戦前に買った土地をすべて手放さなければならなかった。そのことについて、父親は息子に延々と愚痴をこぼす。そこから始まって、かれは人生の恨み、家庭の中で疎外されていた自分の立場がいかに寂しいものであったかという言いわけなどがつづくという芝居であった。
 なんのことはない、それはわが家のおやじそのものがその頃こ .こぼしていた愚痴話なのであった。私は父にのべつ聞かされていたその愚痴話を、そのまま書いただけのことであった。
 だから書きおわったとき、「駄目だ、こりゃ ! 」と思った。おやじの愚痴話など面白がってくれる人なんかいるものか、と思った。
 ところが、その原稿を研究会に持って行って朗読したところ、皆が聞いているうちにクスクス笑うのである。結果は意外や評判がよかった。私はアッケにとられた。
 考えてみると、この『桜と錨』もわが父の愚痴話が主体になっているかも知れない。
 父が死んだのは、昭和37年3月30日のことだった。享年81歳。母が死んで8年が経っていた。
 子供たちは次姉をのぞいてすべて所帯を持って家を出ていた。次姉も勤めがあるから、昼間はいない。たったひとりで家にいた父としては、おのれの愚痴話を聞いてくれる相手がいなかった。
 父が死んだとき、行李二杯におよぶかれの日記が残った。おまえはもの書きなのだから、この日記はおまえが預かれと兄に言われて、私はしぶしぶわが家に引き取った。迷惑だったのである。行李ニ杯の日記は物置きの隅にほうり込まれたまま、何年かが経った。
 50を過ぎてから、私は妙にその日記のことが気になりはじめた。
 埃だらけの物置小屋から、私はその日記群を引っぱり出して来て読みはじめた。それは延々とつづ
く父の愚痴話総集篇であった。「父のせりふ」どころではなかった。また、おやじが生きていたころ聞かされていたお説教以上のものであった。私はうんざりしながら、とうとうその日記群を読み終えた。
 ひとりの男の生涯をかけての怨念がそこにあった。
 気がついたら、私は父の日記を摘記しはじめていた。
 私も次第に年老いていた。胃病・糖尿病・肝臓病、そして交通事故による骨盤骨折などのため、入退院をくり返した。その間にも私は父の日記の摘記をやめなかった。そして父の死亡まで書いたとき、400字詰め原稿 用紙にして1,300枚に及ぶ大作ができ上がっていた。おやじの愚痴話など面白がってくれる人なんかいるもんか、と思った。
 もともとそれは私が二人の子のために書いたメモワールのようなものだったから、公表するつもりはなかった。姉にだけは読ませた。だが、妻も子供も読んでいない。それでもよかった。私が死んで何年かしたら、かつての私がそうであったように父のメモワールを読んでくれるかも知れない。その気が起きるまで、私は知らん顔をしているつもりだった。
 昨年の夏のことだった。
 私は知人の葬式で、友人の幾瀬勝彬 ( 『海軍式男の作法』の著者〉と会った。私はかれに父の日記のことや、海軍三代の家系の話をした。幾瀬はその話を光人社の牛嶋義勝氏に話し、そこからこの本が生まれることになった。
 公表するつもりのなかった私のメモワールが、今度の原稿で役に立った。
 因縁としか言いよう、がない。
 ここに幾瀬・牛嶋両氏に感謝を捧げる。    
                    1997年2月     著者
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