BGM 轟沈 東京消防庁音楽隊
        ハワイ・ミッドウエイ・ソロモン
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       太平洋海戦記
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             元赤城搭乗員 海軍主計大尉 杉山  績 著(海経28期)
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                              あとがき   杉山  績
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  昭和16年12月8日、日本の機動部隊がハワイを爆撃してから、すでに30数年の歳月がたつた。私は戦争前は戦艦長門に乗っていたが、ハワイ空襲以来、航空母艦、駆逐艦、巡洋艦に転乗して、太平洋、インド洋をところせまきまでにかけめぐり、海戦につぐ海戦に参加というめまぐるしい戦歴をかさねた。
 最初のうちは航空母艦による数々の大戦果に酔ったが、ものの6カ月もたつかたたないうちに、戦争の様相が急変してわれに利あらず、苦闘に苦闘をかさねながら、幾度か死との対決を迫られた。おもえばまさに九死に一生をえて、今なお生あるわが身が不思議でならない。人の生と死を瞬時に決めるものが戦争であるというならば、その生と死はまさに紙一重であるといえるのも戦争であろう。これが運命といわれるものであろうか。
 私は開戦以来、いろいろな海戦を通じて数多くのこれらの現実場面に遭遇した。この体験だけは絶対余人をもってかえることのできないものと確信する。
 かえりみるに、英国のロイヤル・ネイヴィの思想と制度を摂取した旧帝国海軍には、いろいろな意味でよいものをたくさん持っていた。軍人社会にありがちな、いわゆる非裟婆的または偏狭な特殊社会的ニュアンスの比較的薄い、そレて同期の桜はもちろんのこと、「海の子」という共通意識を持つ、兄と弟の関係で結ぼれた士官の集合体を中心とした社会が海軍であったといえるだろう。その基礎訓練は「自由と規律」の中に、海軍生徒学校で実施され、それが平時において「舟板一枚下地獄」式運命共同体ともいうべき艦隊勤務にてさらに磨きをかけられながら、日本式ロイヤル・ネイヴィの伝統を構築してきたのがかつての海軍であったといいうる。
 国際感覚と常識の持ち主の多かった海軍が、太平洋戦争開始にあたって、徹底的に抵抗をなしえずしてついに開戦に追いやられたことはまことに痛恨事といわねばならぬが、国の方針として一度開戦と決まった以上は、海軍としても最善をつくさねばならぬのはもちろんであり、この意味で開戦以来の海軍首脳の苦悩は想像に難くない。
 山本五十六連合艦隊司令長官の予言のごとく、戦局は開戦後一年を出でずしてわが方に不利に推移したが、これら開戦前後の中央のデリケートないきさつについては、出先艦隊の一般職員には未知のことであり、したがって開戦と同時に皆全力投球を開始したのはもちろんである。この間、私も幾度か死線を越えながら滅私奉公したつもりであり、今ふりかえって何の悔いもない。
 同時に、このゲマインシャフトリッヒな海軍社会の中で、意識的にもまた無意識の中にも、わが身にしみついた数々の尊い躾( しつけ ) と教訓は、もはや終生消失することはないであろう。ことに戦争中に数知れず直面した「生と死」の問題、または人間の持つ運命とか寿命というものの機微についても、私なりに一つの人生観をうえつけられたように思う。
 終戦後しばらくして、これらの体験を戦記として書くことを多くの人からすすめられたが、「敗残の将兵を語らず」の古語に制肘され、どうしても書く気にはなれなかった。たまたま昭和52年は私の還暦の年であり、記憶の喪失しないうちに還暦を機として記録を残し、親戚や友人、さらに今の若い人たちへ後日の参考に供してはどうかとの話もあって、ついに執筆に着手したのであるが、今回、図書出版社から出版されることとなったので、原稿をおまかせした次第である。
 一般に出版ということになれば、単に戦略、戦術場面のことのみならず、この機会に海軍士官を養成した海軍生徒学校の内容と、さらに多少専門的になるが、当時の海軍部内における軍政と軍令の問題を、陸軍のそれとの比較において、その概要を紹介することとした。
 個々の海戦の記事はもっぱら私の記憶と体験を中心としたものであるが、各艦の細かい行動や正確な時間など、ならびに軍令部条例の改定の歴史に関しては、一部他の文献を参考にした。参照させていただいた文献は左の通りである。
  山崎重陣  『日米五大海戦』
  木俣滋郎  『日本空母戦史』
  水交会    『寺島健伝』
 なお戦争中の個々の小艦艇の動静や首脳職員の氏名などについて、私の記憶のさだかでない部分を正確な資料にもとづいて補填しえたのは、たまたま防衛庁防衛研修所戦史部第二戦史室長に私の同期の市来俊男君がいたからである o このことは、私にとってまことに僥倖であった。あらためて同氏の御協力に感謝する。
                  昭和54年5月   杉山  績