高木 寛 の時事放談

  184号 平成30年3月1日

 
 
時事短編
北鮮オリンピック
掌を返す

 平昌五輪は2月9日から行われましたが、ロシアの集団強化剤使用問題などでは厳重な資格制限を行ったオリンピック委員会が、開会直前に北鮮選手の出場を認可する特別扱をしたのが腑に落ちませんし、文韓国の北鮮選手へのもてなしぶりも異常でした。一方歓迎された筈の米国のペンス副大統領や我が安倍首相は何時の間にか姿を消しました。
上からの目線
 “早い時期に平壌(ピョンヤン)で会おう”と言う金正恩の伝言を金の妹から受け取り、ニコニコ喜んでいた文大統領を見てたいへん驚きました。これは 「ピョンヤンに来い」と言う
“上からの目線”なことは明かです。上下関係に最も神経質な韓国が、散々苦汁を飲まされた北鮮の“呼び出し”に感涙にむせぶ理由が分かりません。
怨み重なる北鮮なのに?
 例を三つだけ挙げます。
朝鮮戦争の終結:北鮮の攻撃で始まり、三年間続いた朝鮮戦争は1953年7月に停戦協定が調印され、戦闘は一先ず中止されました。しかしこれに調印したのは連合国(米国が代表)、中国、北鮮だけで,当事国の韓国は不満として調印せず今日に至っています。言い換えれば韓国は北鮮とはまだ交戦中なのです。         
ラングーン事件:
  1983年10月、ビルマでの北鮮による韓国要人爆殺事件では、全斗煥大統領は危うく難を逃れたものの多くの要人が殺され、責任者の北鮮軍将校など数名が生きたまま逮捕されて事件の全貌が判明しています。
③ 
大韓航空爆破事件
 1987年12月大半が韓国人の115人の乗客が命を奪われた「大韓航空爆破事件」の主犯は服毒自殺したものの従犯の金賢姫は捕まり、北鮮政府の計画が白日の下に曝されたことは誰もが知るところです。 
 70年前の戦争中のありもしない「慰安婦問題」に何時までもしつこく固執し、今でも“謝れ!!、謝れ!!”と叫んでいる韓国が、30~50年前、目の前で自分の国民が殺された事件には目をつむり、“挨拶に来い”と言われてニコニコしている韓国とはどんな人間の集まりなのか分かりかねます。
朝鮮合邦の費用
 もし韓国と朝鮮が合邦した場合の費用をグーグルで引いてみますと、1990年の東西 ドイツ合邦で、西独政府が東独政府に行った公的支出は 1兆6千億ユーロ(約185兆円=我が国家予算の約2倍)で、朝鮮の場合は両国GDPの差がドイツの場合とかけ離れているので、この3~4倍はかかるだろうとのことです。
 ただこの合邦が「金正恩一家の消滅」を意味するとすれば、決して実現しません。
韓国
韓国の忘恩

 明治43年(1910年)我国は当時朝鮮の権力者大院君などからの依頼を受け正式な手続きを踏んでこの国を併合しました。何号か前、百田尚樹著
「今こそ韓国に謝ろう」をお勧めしましたが、この本で韓国が如何に「忘恩の徒」であるかを知ることが出来ます。
 14世紀末高麗の一武将の李成桂は何の理由も無く王室を滅ぼして朝鮮国を設立、以後李家が約5百年、中国王朝(明と清)承認の下に朝鮮半島を統治しましたが、その見返りに毎年莫大な金品と多数の美女とを献上しなければなりませんでした。
 我国は万物の殆どを中国に学んだものの、「科挙、宦官、纏足」は採用しなかったと申しましたが、朝鮮は宦官と科挙を取り入れ、次のような悲惨な国になりました。
宦官
 「韓国の時代物映画」の宮殿で、高価な絹の衣装に髭を生やして出てくる人物ではなく、無地の着物に髭の無い召使い風の人物が宦官です。この「男子機能を失い、卑しめられた宦官」は立身出世は望めませんでしたが、君主の間近に仕えて得る情報を悪用して莫大な金銭的利益を得ていました。この宦官制度はアラビアから中国に伝えられたものですが、このため朝鮮には中国王朝と同様何度も国運を左右する悲惨な事件が起きています。
 アラビアでは今でも成年男子が髭を生やしているのは“自分は宦官ではない”ことを表していると言う説がありますが、まんざらウソでは無さそうです。
科挙と両班
 中国で13世紀も続いた科挙制度での試験問題は四書五経から取られ、合格した高官はこの儒教思想で天子に仕えました。その影響で労働や技術を卑しむようになった中国高官に倣い、朝鮮の高官はタバコのキセルさえ下僕に持たせるまでに身体を使うことを賤しく考えました。この風潮が今でも韓国人の現場仕事を卑しむ原因になっているそうです。
 ただ中国では科挙合格人物の特権は一代限りでしたが、朝鮮では一人が合格しますと、末裔までが「両班=リャンパン」と言う永世特権を得て、王族とともに人民に君臨しました。王族と両班以外の人民は戸籍さえ与えられない賤民とされたのです。
戦後の我が援助
 1965年我が国は「日韓基本条約」により当時の韓国の年間予算の殆ど二倍に当たる8億ドルもの有償、無償の援助を行いましたが、それ以外にも公的施設や民間の不動産などの放棄を考えれば、莫大な支援をしたことになります。丁度その頃、私は仕事で頻繁に韓国へ出張していましたが、或る弁護士の事務所で書棚の本が「六法全書」を始め殆ど日本のものだったのに驚いたことがあります。
忘恩の徒 
 韓国が誇る「漢江(ハンガン)の奇跡」は我が国の援助を一切民間に使わず経済復興に注ぎ込んだ当時の大統領朴正煕の成果です。満州国軍の中尉だった朴は表面「反日」のふりをしていましたが、内々何かと我が国に教えを乞うたのです。そしてその後の大統領は多かれ少なかれ、国民の人気取りに「反日」を看板にしました。特に三代前の盧武鉉からは
“朝日新聞の助けを借りて” 「慰安婦」を振りかざし、反日の限りを尽くす 「忘恩の徒」 となったのです。
反中、反韓の総括
反韓と反中

 日本人の「反韓」「反中」の世論調査は最近行われていませんが、従来は反中がいつも反韓を上回っていました。しかし我が国は昔から中国には多くの借りがある一方、韓国には合邦中も戦後も大きな貸しがあります。ですから今のこれら二国に対する我が国民感情はおかしいのです。
日本の忘恩
 古い話になりますが、我が国は6世紀の隋の頃から19世紀の清朝の半ばまで、殆どの文物を中国から取り入れ、それを発展させて今日に至っています。ところが我が国はその恩を忘れ、却って仇をするようなりました。
漢字 
 漢字に例を取りますと、我が国は康煕字典所載の四万字の殆どを採り入れ、日本語読みの「訓」や平仮名、片仮名にまで発展させました。但し我が国が唐時代の「音」を忠実に採用し、現代に至っているのに対し、中国では唐➡宋➡元➡明➡清と王朝の変遷によって首府も移り、発音が大きく変化してしまつています。 
 例えば私の苗字「高木」は日本の音では“コウボク”ですが、これは唐時代の長安の発音で、現在の中国では“カオムウ”です。ホンの一例です。
北洋艦隊
 “鶏(トリ)ノ林ニ風立チテ、行キ来ノ雲ノ足早シ。
           吉野、浪速、秋津島(アキツシマ)探ル牙山ノ道スガラ・・”
と言う軍歌を知っている人はまづいないでしょう。これは明治27~28年の日清戦争の 「黄海の海戦」を歌った軍歌の“歌い出し”で、明治16年生まれの親父がよく歌っていたので覚えました。「鶏ノ林」は「鶏林(ケイリン)八道」つまり朝鮮のことです。 
 その西の「黄海」で日本艦隊は名提督と評判の高かった丁汝昌 (テイジョショウ)率いる清の北洋艦隊に大勝しましたが、この戦争は我が国の“言いがかり”のようなものでした。
 当時清の西太后(セイタイゴウ)は絶大な権力を持ち、自分の住む頤和園を改装するため北洋艦隊の予算を大幅に削りましたので、丁汝昌は日本艦隊との海戦の準備を整えることが出来ないまま戦に臨むとになってしまったのだそうです。 
 西太后は前漢の呂太后、唐の則天武后とともに中国の「三(悪)太后」と言われます。
忘恩ノ徒
 日清戦争の大勝で清を甘く見た日本陸軍はやがて満州事変、上海事変、満州国設立、日支事変と立て続けに中国の主権の存在する地域に武力で侵入しました。完全な「侵略」でした。我が国は大恩ある中国に“恩を仇で返す”
「忘恩の徒」と化したのです。
 我が反中が反韓を上回っているとしたら、2005年と2012年中国政府が使嗾したと言う民衆の日本企業襲撃があまりにも酷かったので、“中国憎し”の感じが強くなったのではないでしょうか? 中国政府がその損害の賠償をしたとは聞いていません。
【注】今月の時事短編の殆どが韓国関係になってしまったのはこの国のあまりの酷さに     
   「怒り心頭」となったためです。ご了解下さい。

池上彰(イケガミアキラ)

経歴:

 1950年8月長野県松本市生まれ67才。・・所謂“団塊の世代”に属します。慶應大学卒、NHK入社、2005年退社、現在フリージヤーナリスト。
 彼はNHK時代「子供ニュース」と言う番組を担当、子供達を韓国に連れて行き、土下座して何かを謝ったりしたので、“アア此奴はNHKの赤かぶれだ”と思っていました。しかも彼がNHK退職後のショウを始めたのが朝日系の「チャンネル5」でしたからやはり左を引きずっていると思い込んだものです。彼がNHKを退職した2005年から画面で彼の顔を見るまでの10年近い間彼は一体どこで何をしていたか?良くわかりません。
活発な出演
 彼が活発にテレビに出演し始めたのはこの二、三年で、始めは一週間に一度、手を白墨で汚しながら、見物人もいない会場で黒板に何かを書いたり消したり、手伝っているのは名もないお手伝いさんタッタ一人だったような気がします。
 ところがアッと言う間に4、5、6、7チャンネル、近頃は古巣のNHKにまで毎日のように出演、解説し始めたことに感嘆し、画面はカラフルに自動化し、常任アシスタント女性の他に「ゲスト」と称する者達を集め始めたのは驚きです。
解説内容
 彼の民放登場当時、NHKでは時事問題を中年の女性(名前が思い出せません)が毎週大学教授を相手に抽象的で極めてわかり憎い解説をしていましたので、池上の具体的な解説は大受けとなりました。そのせいでしょうか? 英語大得意のオバチャンは失業して大阪へ引き上げる悲劇になったと言う噂があります。
 そして何と驚いたことに彼は中央思想線から多少右寄りの解説を続け、しかもその範囲を政治、経済から広げて行ったのです。但し近頃コマシャル重視に押されてか、見物席に有象無象のタレントを入れるようになりましたので解説量は半減しました。そしてその中に野球の長嶋茂雄の息子を知識人扱いで入れたのにはヒックリかえる程驚いています。
頻度
 このように始めは一週間に一度くらいしか見なかった池上が近頃は毎日どこかの局に顔を出すようになったばかりか、本屋に彼単独や共著の本がズラリと並ぶようになったのにも驚かされます。こんな無茶苦茶な働きには恐らく「影武者」がいる筈ですが、実演の最中に突然誰かが言い出した質問に即座に答える彼の能力は大したものだとも思います。しかも彼は二、三の大学の教師もしているのです。
 ただこの頃週刊誌などに彼への悪評や叱声などがしばしば載るようになってきました。
【お断り】
 今まで何度も申し上げていますが、この「時事短編」は私の全く知らない分野のことをその辺に転がっている怪しげなネタで固めたもので、決して権威のあるものではありません。
 私の本業は「油壺から」の「落とし話」です。但しこの笑い話も平成4年から書き続け、四半世紀にもなりますので、同じ事をに二度も三度も使ってしまうことがあります。寄る年波‥古い言葉ですが・・のせいです。ご了承下さい。

           油壷から(75)
競馬通
一生懸命

滲む

 前号で「父は兵庫に赴かん」と申しました。そこに登場した後醍醐天皇が隠岐の島に流される前夜、児島高徳が近くの桜の木の皮を削って
 「天勾践(コウセン)ヺ空(ムナ)シュウスル莫(ナカ)レ、~~」
と書いた話は今の学校では教えませんが、我々の頭には強く残っています。
 しかしこれは作り話で、
 ①後醍醐帝の宿舎の傍で夜、明かりを付けたら、足利軍にすぐ発見されてしまう。
 ②桜の木の皮を削って墨で字を書いても翌朝は滲んでしまって読めない。
一所懸命→一生懸命
 楠木のような武士は農家から生まれ、その土地(一所)”にしがみついて生きていましたので
“一所ヲ守ルノニ命ヲ懸ケル=一所懸命”と言う日本熟語が初めに出来ました。ところが天下に覇を唱えようとする足利尊氏は楠木氏の土地を保証してくれないことが分かつたので、保証してくれる後醍醐帝の方につこうとしたのは事実のようです。
楠木正成の銅像
 立派に修復された東京駅の丸の内口からは今でも観光「鳩バス」が出ています。
 東京駅を出ると間もなく皇居前(我々は宮城前と言っていました)にぶつかりますが、そこを左折して祝田橋にさしかかったところで、バスガール(今はバスガイド)が
“左に見えて参りましたのが楠木正成の銅像でございます”とアナウンスしますと、
あんちゃん苅りした中年男が立ち上がって、“クスノキマサシゲと言う馬アは聞いたことねえが、乗ってる騎手は誰なんだい? ネエチャン”と聞いたそうです。
 こんなバカ話でも競馬の馬の名前は“カタカナで9字まで”を知らないと作れません。この話は随分前にしたような気がしますが、確認する根気がなくなりました。
赤とんぼ
 「赤とんぼ」と言う童謡があります。グーグルで引きますと大正10年(1921年)発表、三木露風作詞、
山田耕筰作曲とありますから百年近く昔の歌ですが、今でもフォレスタが良く歌う名曲ですから皆さんもご存じでしょう。一番の歌詞は
  “夕やけこやけの赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か・・・”です。
 山田耕筰の作曲はこの他“待ちぼうけ”、“からたちの花”、“砂山”、“兎のダンス” “城ヶ島の雨”、“この道”など数え切れませんが、始め彼は「山田耕作」と名乗り“作”にタケカンムリはありませんでした。
 ところが彼は自分の頭に髪の毛が一本も無くなった時、誰に断ることもなく勝手に“作”に 「タケカンムリ」を付けたのだそうです。「タケカンムリ(ヶヶ)・・タッタ二本でもいいからケ(毛)が欲しい」と思ったからだそうで、現にこの「筰」と言う字はどんな辞書にも載っていません。 
 本当の話です。
天皇賞
 この山田耕筰の逸話を聞いた男が“驚き桃の木山椒の木、ブリキにタヌキに蓄音機”と
ありふれた事を申しましたが、残念ながら今の若い人はこれが“キ”と言う韻を踏んだ文句だとは勿論知りません。念のためにグーグルに当たってみましたら、この下の句が“枯れ木にタヌキに洗濯機”に変わっていたのにはアキレました。
 しかしこの「オドロキ」がここでおしまいにはならないのがまた「オドロキ」です。
 
“夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのは何時の日か”
と全く同じ節回しで
 
“驚き、桃の木、山椒の木、ブリキにタヌキに蓄音機”
が歌えることを発見したのは私です。
 「夕焼け・・」と「驚き・・」とが世間に出てから優に百年経ちますが、この二つが同じ節で歌えるということを発見したのは何を隠しましょうこの私なのです。その功績から言えば私は「国民栄誉賞」はともかく、「天皇賞」位は貰えるのではないか?」と知り合いに尋ねましたら、“絶対にダメだ。”と言った後で、“天皇賞を貰えるのは馬だけだ”と付け加えました。天皇賞は競馬の賞だったのです。
 かくして上記の「競馬の馬のナマエはカタカナで9字まで」と「天皇賞は競馬の賞」とを合わせて、馬券を買ったことのない私も
競馬通になったような気がして来ました。
銅像
肉弾三勇士

 私の入っている老人ホームは経営者が代替わりして九州の会社になり、福岡人が続々と乗り込んで来ました。その支配人と言う中年・・と言ってもまだ五十前・・の人物に
“江下、北川、作江(サクエ)知ってる?”と聞きましたが、全く反応はありません。
 昭和七年の上海事変で爆薬筒を抱えて敵の鉄条網に躍り込み、戦死した三人は福岡県久留米の連隊の一等兵で、軍神とあがめられ、三人が揃って「爆薬筒」を抱えた大きな「肉弾三勇士」の銅像が確か神田周辺にありました。
 全くの余談で真偽の程は保証しませんが、この「久留米の48連隊」は日本の最強連隊といわれ、“又も負けたか8連隊”と言われた大阪連隊が最弱だったそうです。
マッカーサーが処分
 東京にあった有名な銅像と言えばこの「肉弾三勇士」の外に上の「楠正成」や「広瀬中佐」「西郷隆盛」「大村益次郎」ですが、今残っているは祝田橋の「楠木正成」、上野の「西郷さん」、靖国神社の「大村さん」だけ、あとは「日本の軍国主義を葬り去る?」ためにマッカーサーが処分したのではないかと思います。
二宮尊徳
 戦前はどこの小学校の庭にも必ずあった “柴刈り縄なひ草鞋を作り・・・”の二宮尊徳の銅像はまだ残っているのでしょうか? 
 この像は軍国主義とは無関係で、マッカーサーも手を付けなかったと思うのですが、日教組の気に障ったかもしれません。
 蛇足ですが日教組の別名を 「丹頂鶴=タンチョウズル」と言うのはご存じでしょうか?“頭のテッペンだけが赤い”ところからきたそうです。

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