高木 寛 の時事放談

  第185号 平成30年4月1日

 
時事短編
北鮮は頭を下げた?
北鮮の謎

 あれだけ猛々しく核兵器や大陸間弾道弾の開発に熱中していた北鮮がどうして急にその態度を180度転換し、大袈裟に言えば“降参”してきたのか?。1995~1998年飢饉のため300万もの人民が餓死したと言う噂が流れたときでさえ金正日は弱音を吐かなかったことを思えば、今回の態度は全く謎です。
 平壌での韓国代表との会談、彼等のトランプへの渡米報告、米朝トップの会談予約など僅か一ヶ月の間に天地がひっくり返るような騒ぎになりました。
どうして録音しなかったのか
 金正恩のお呼びに韓国の大統領がすぐ送った二人の役人の取った態度がまた謎です。北鮮側は問答を全部録音しているのに彼等は一生懸命メモしていました。       
 ただこのメモが曲者で、文大統領へは正直に報告、トランプ相手には“韓国の点数を上げるおいしい部分だけを報告”したことは十分に考えられます。もし録音していたらどんなに細工をしても必ず見破られてしまうでしょう。
北鮮軟化の理由
 衛星放送8番の反町の番組など全部の局がこの問題を大きく取り上げていますが、“どうして北鮮が突然180度態度を変えたのか”についてトコトン議論しないのが不思議です。十年以上続いた「六カ国会議」で北鮮が何度も誓い、核関連施設破壊の見返りに発電所まで提供したのに、密かに温存していた核施設を復活した苦い経験もあり、この国を信用することは出来ません。
 もし北鮮が核開発を中止すると言うなら、極めて正確になった宇宙衛星の探査に合わせてしらみつぶしに核施設を調べ、破壊するなど、徹底的な処理が必要です。北鮮がすべての期待をかけている筈の「経済援助」は非核化が完全に確認、実施されてから後のこととすべきなのは当然でしょう。

不思議なトランプの反応

 それにもましておかしいのは、あの海千山千のトランプが韓国の走り使いが説明したその場で“金正恩に五月に会おう”と言ったことです。
 金軟化の情報は既にトランプの耳に入っていて、彼はあらゆる情報を総合して決断してい
たのだと言う人物もいますが、彼は「即断即決」ではあっても「用意周到な慎重居士」ではありません。またこの事態の専門家は彼の傍には一人もいないと言う説もあり、国務長官を簡単にクビにした彼が軽率な行動で事態をメチャクチャにしないように祈ります。
拉致問題
 北鮮問題については昔の「六カ国協議」の国が今でもすべて関与していますが、日本だけに「拉致問題」が存在します。
 これに関して十五年昔の平成15年8月号に書いた文章を下に載せておきます。
人質問題
8月18日の放送で自民党の平沢勝栄代議士は拉致被害者五人を帰す代償として、一人当たり10億円程度を支払うように北鮮が内々に打診して来ているとはっきり述べました。身代金の要求です。これに対し北鮮側から何の反論も無いところを見れば、全くの作り話とも思えません。
世界中でただ一つ泥棒国家となった同国の主要な外貨の獲得手段が麻薬、自動車の密輸 紙幣の贋造,ミサイルの輸出の四種類であることはつとに知られていますが、身代金目的の営利誘拐まで始めたとは知りませんでした。こうなればもう何でもありです。昨年9月金正日が拉致を自白したのはてっきり失敗だったと思っていましたがとんでもない間違いで、彼には深い読みがあった事に気がつきました。・・何故なら 人質があることをはっきりさせておかねば身代金を請求することが出来ないからです。

 平沢の言葉通り、我が国は北鮮に穀物や肥料50億円相当の商品を送りました。
 これは単なる憶測かも知れませんが、もう或るマスコミでは北鮮に残っている拉致者約十人に対して北鮮が考えている「身代金」は一人1億ドル合計10億ドル(1000億円)だと書いています。身代金を値切るのは国内事情から難しく、そうかと言って途方も無い金を払うことも出来ず、安倍は大きな頭痛に悩むことになるでしょう。
安倍は一人
 我が国が重大事態に直面している最中、既に司直の手が入っている小学校の敷地のチッポケな問題で立憲民主党たら言う旧社会党、元民主党が国会の審議をストップしているのには
全く腹が立ちます。彼等は世の中を鳩山時代に引き戻そうとしているのでしょうか?またこ
の下らん騒動で安倍の支持率が急落したそうで、我が国もあのバカン国のロウソク行列のような「ポピュリズム」の国になってしまった錯覚に陥ります。現在の日本は色々な難問を抱え、安倍を他の人物に乗り換えられる時代ではないのは明かではありませんか?
ジャスミン革命
 平昌冬オリンピック直前突如北鮮からの交渉希望が伝えられた時、第一の条件は「現在の
指導体制を維持すること」でした。と言うことは「金正恩」一家の地位確約を前提としています。
 1990年代初ソ連崩壊の頃、ルーマニアで独裁政権を誇ったチャウセスク夫妻が逃亡の
途中民兵に捕まり、その場で銃殺されたのを金一家は目の前に見ています。
 また10年ほど前、中近東で
「ジャスミン革命」が起こり、チュニジア、リビア、エジプト、イラクと次々に独裁者一家が大変な目に遭いました。
 金正恩が最も恐れているのは現在の支配体制が崩れ、彼がこれまでに処刑した数百人のこ
とは問題外、彼一家がチャウセスクやアラブの独裁者のように怒り狂った大衆になぶり殺しにされることです。
 北鮮が若し「核と大陸間弾道弾」さえ放棄すれば、旧六カ国会議のメンバーが金一家の支配体制を保証してくれることを金正恩は熱望しているなら、交渉成立は可能です。
医療の進歩と変わらない病院や医者
 この殆ど一世紀の間に一度罹ったら助からない難病と言われた病気が次々と克服されて来ましたし、医学はこれからも進歩して行くでしょう。しかしこれに合わせて医療周辺の環境が改善されて行くかと言えば、それは疑問です。 
天然痘(疱瘡)
 天然痘は太古から我が国に広がりましたが,19世紀末の種痘の普及により殆ど姿を消しました。もっとも大正生まれの私は幼い頃たまに街で「アバタ」の人を何人も見かけたのを覚えています。
脚気
 海軍軍医総監高木兼寛・・私に良く似た名前ですが全く関係ありません・・は日露戦争の頃バタバタ死んで行く兵士に麦飯を食べさせることでこの病気は防げると主張、海軍での脚気の患者は無くなりました。ビタミンCの効用です。
 一方海軍に対抗意識を持つ陸軍の軍医総監森鴎外(文豪)はこれを信じなかったため多数の死者を出し続けたことは広く知られています。
 かくして明治末年、不治の病(ヤマイ)と言われた脚気は民間にも見られなくなりました。
肺病(労咳)
 徳川時代肺の病には誰も勝てず、労咳(ロウガイ)に罹ったらただ苦しまないで人生の最後を迎えられることだけを祈つたそうです。私事で申し訳ありませんが、私の父も兄も終戦前から戦後にかけて肺結核でこの世を去りました。
 ところが米国では戦前早くもストレプトマイシン等の特効薬が発明され、結核患者は急激に減っていたのです。政府はこれらの薬を用いて昭和26年「結核予防法」を施行、患者は急激に減少しました。
 明治時代35才で亡くなった俳聖正岡子規、僅か24才で世を去った天才作曲家滝廉太郎
などを思い起こすとき、それから僅か百年の間に進んだ医学に感謝しなければなりません。
糖尿病
 この病気は不治の病と見られ、その合併症とともに大変恐れられてきましたが、近年治療方法の改良などでその悪化が防げるようになっています。近い将来特効薬などの出現で根本的治療方法も考えられるのではないでしょうか?
リウマチ
 また私事になって恐縮ですが、私の家内は永年苦しんだ末に平成13年リウマチでこの世を去りました。平成2年の発病からの苦しみをつらい思いで見ながら、当時の医学では何も出来ないまま私はその最後を見送つたのです。
 ところが家内の死後数年で生物学的製剤とか言う特効薬が発明され、それまで死病と言われていたリウマチでの死亡者は殆ど無くなったと申します。        
ガン
 ノーベル賞受賞者京都大学山中教授の発見した「IPS細胞」の利用で体内各所のガン細胞
への対応が進み、近い将来・・と言っても何十年かはかかるでしょうが・・ガンは命とりの病気ではなくなるそうです。昭和末年までガン患者への「告知」はしませんでしたが、今は堂々と行われているのは治癒の可能性が大きくなったからでしょう。
医者は謝らない
 上述のように昔から難病と言われたり、不治の病と恐れられた病気はこの百年ほどで治療方法が次から次へと発見され、人間の平均寿命は延びて行くのに、全く変わらないのが病院と医者です。
 医者や病院の態度は60年前私が痔の手術を受けた時と殆ど変わっていません。意地悪で威張っていた看護婦がいなくなったのが進歩と言えるかも知れませんが、外来患者は10時の予約の診察が午後2時になっても文句は言えませんし、医者は謝りません。また無礼で不親切な医者にも患者は泣き寝入りしています。
自動車教習所と病院
 例によって話が逸れるのをお許し下さい。
 昭和34年、私はアフリカ転勤を前にして運転免許を取っておこうと教習所に通い始めましたが、教師なる男から“ナニヤッテンダ!!くそったれ、踏むんだバカヤロー”と言われた時、「駕籠かきヤクザ」に習うのを諦めました。
 ところが20年程前、70才以上の免許更新講習で近所の「教習所」に行って驚きました。
生徒が先生を選べ、先生も親切、丁寧な紳士に変わっていたのです。悪い奴が淘汰されたのでしょう・・悪いままだとその教習所は潰れていたに違いありません。教師忌避制度が確立していたのです。
医師の考課と忌避制度
 小さな町医者なら気に入らなければ換えれば良いのですが、大きな病院ではそうは行きません。
①同じ科でも特定の病気を得意とする医者がいるのに、その医者に担当して貰えない。
 (初診の際病状を聞いて担当医を決める制度になっていない病院が殆ど)
②親切な医者もいるけれど、傲慢無礼なのも・・特に女医・・沢山いるのに忌避する制度
 が確立していない。私は今まで病院長に直接談判して二人の女医を忌避したことがあり
 ますが、普通の人にはなかなか出来ません。
③医師の人事評価は誰がどのようにするのでしょう? また担当医に対する患者の評価は 
 どのように行われているのでしょうか?
④官公立の病院ではあまり問題になっていませんが、私立病院では医師に対する「謝礼」が
 殆ど公然と行われているようで、これに伴って患者の待遇に差が出てくるのは当然で
 す。
ホームドクター制度
 ロンドンに長く住んだ次女の話では英国では「ホーム・ドクター(HD)制度」が確立していて、病院はHDの依頼状が無い限り患者は受け入れないそうです。また一旦決まったHDの変更は難しいので、選ぶのも大変慎重になると申します。
 市中の小さな医院の反対や医師会の政治的に大きな影響力などもあって現在の制度を換えるのは難しそうですが、HDのような患者重視の制度を早く実現して欲しいものです。
 私の住む地方の小さな公立病院は地元の年寄りが毎日集まり、世間話の場になっていて、
朝10時に受け付けて貰っても診察は普通午後になってしまいます。もしHD方式があれば、こんなことは無くなるはずです。

           油壺から(76)

唐詩選(決して難しいことではありません。お気軽に)
唐詩選開巻第一首:述懐(ジュッカイ)

 唐詩選と言う詩集は明末、清初と言いますから17世紀半ば、李攀竜(リハンリョウ)撰で売り出され、当時の中国でベスト・セラーとなった唐代詩人の詩集です。名詩465首を集めたもので、我が国では昔から珍重され、今でも岩波書店から1961年 (昭和36年)
初版、上、中、下三巻が販売されています。
 この開巻第一首、魏徴(ギチョウ)の“中原(チュウゲン)マタ鹿ヲ逐フ”で始まる20句・・つまり100字の詩
「述懐」・・は大変有名です。しかし彼が自分で考えた文句・・魏徴オリジナル・・は最後の「功名誰復論・・功名誰カマタ論ゼン」5字だけで、残りの19句95字は何処からかハサミで切って来てノリで貼付けた詩だと言う人があります。
 実は私の書くのは魏徴と同様、殆どよその人のものを黙って持って来たものですから、いくら変なことや間違いがあったとしてもそれは私の罪ではなく、持って来た先の責任だと言いたくて長々とご説明したわけです。
魏徴と私
 それでは魏徴と私は同じ程度の人間かと申しますと、とんでもない、魏徴は名君太宗李世民に仕え「貞観(ジョウガン)の治(チ)」と言う平和で豊かな時代を作った名臣でした。
 それに比べてこの私は世の中に何の寄与をするでもなく、今は“年金ドロボー”と罵られ、なるべく人目に触れないようにヒッソリ余生を送っている哀れな年寄りに過ぎません。
唐詩選とパクリ
 これも勿論よその人から聞いた話ですが、唐詩選の編者と言われる「李攀竜」は立派な大学者だそうですが、この詩集が出版された時にはもうこの世にいませんでした。そして驚いたことにこの詩集に真っ先に出て来なければならない杜甫の“国破レテ山河アリ~”の「春望」が抜けており、有名な白楽天や杜牧の詩も一首も載っていません。
 これを怪しんだ後世の学者が良く調べたところ、この詩集の発行者は李攀竜の名前を無断で借りており、中国では17世紀にはもう「パクリ」が横行していたのが分かります。
選と撰
 ここまで来たついでに、李攀竜の「撰」と選挙の「選」との違いをまたよその人の説明を借りて述べますと、「選」は“選ぶ”ですが、「撰」は“文集などに誰の文章を入れるかえらぶ”と言う意味だそうです。良く“みかん”などを“一々手で選ぶ”などと思わせるようにテヘンの「撰」を使うのは無学の証拠だと申します。
貞観政要
 ついでですからよそから聞いたことを最後までやってしまいましょう。
 この貞観時代、天子の太宗と魏徴、房玄齢、杜如晦などの名臣との間に取り交わされた問答を収録した
「貞観政要(ジョウガンセイヨウ)」と言う本が発行され、後世皇太子の教育
にたいへん使われました。我が国でも明治天皇が皇太子の頃この本が使われ、明けても暮れても「貞観セイヨー」「ジョウガンセイヨウ」。賢明な皇太子もとうとうたまりかねて、“もういい加減に
セイヨウ”と仰せられたということが記録に残っていると聞きましたが、怪しいものです。
治らない病気
66分

 「椰子の実」や「荒城の月」などの歌曲は良い歌手でありさえすれば、鮫島有美子だろうが、
森 麻季だろうが、藤原義江だろうが、錦織 健だろうが、誰が歌っても楽しく聞けます。
 しかし歌謡曲(流行歌)になりますと“誰が歌ったか”が問題で、「湯島の白梅」は小畑実、
「丘を越えて」は藤山一郎、「野崎詣りは」は東海林太郎でなければならず、「青い山脈」をも
し鶴田浩二が歌ったとしたら、“場違い”扱いされてしまいます。        
 何をクダクダ古い事を言っているかと言えば、「夜霧のブルース」「リンゴの木の下で」 「アイルランドの娘」 「上海ブルース」「人生の並木道」「二人は若い」など大当たりの曲を歌った歌手の名前がノドまで出かかっているのに思い出せなかった経験があるからです。
 電車の三崎口の始発から考え始めて「デイック・ミネ」を思い出したのが終点の泉岳寺で
したから何と66分かかった計算になります。 
記憶の引き出し:健忘症
 デイック・ミネを思い出すのに66分かかったのは間違いなく健忘症のせいです。  
 しょっちゅう使われていたのに今は使われなくなった言葉が沢山ありますが、
「健忘症」もその一つで、覚えているのは間違いないのに、なかなか思い出せない現象は皆さんも自覚しておられると思います。この症状は今流行りの「認知症」や「失語症」とは全く異質のものです。
 中身の多寡は違うものの、人にはそれぞれ記憶の引き出しを持っていて、年齢を重ねるに
従いその数が増えたり減ったりして行きます。しかし時の経つに従い、その引き出しが消えたり、錆びついたりするのは人類共通の劣化です。
記憶力
 記憶に関連して問題になるのは「記憶力」で、中国で長く首相を勤めた周恩来のように、立ち話をした相手と半世紀後再会したときその内容を詳細に述べたと言うくらい中国人の記憶力は抜群で、私がシンガポール勤務で大恥をかいたことは何時ぞや述べました。このように記憶力の範囲は民族、人種、個人によって大きく違いますが、一旦覚えた記憶を回顧する能力・・つまり記憶力・・の有無とその取り出すスピードが問題です。
 上のデイック・ミネについて私はチャントその記憶を持っているのに、取り出すまでに時間がかかったのは「記憶力減退=健忘症」のせいです。
認知症
 私の入っている老人ホームでは身体が不自由で車椅子生活となった人と足腰はしっかりしていても認知症になった人を「介護棟」に収容します。
 認知症は健忘症とは全く異質のものです。健忘症は記憶は持っているがすぐに出て来ないのに対し、認知症は記憶そのものがなくなっている状態です。無いのですからいつまで待っても出ては来ません。
 この老人ホームで認知症と思われる入居者を介護棟に移そうとして家族を呼びますと、普通の会話が出来るので、家族が“おかしい”と抗議するケースが何度かありましたが、この入居者には家族に関する記憶だけが残っているのでした。
(注)以上も「魏徴」のようによそから聞いた話ですから信用されないようにお願いします。