高木 寛 の時事放談

  第190号 平成30年9月1日

 
 寄る年波でこのところ病院の厄介にばかりになっています。従って今月の「時事短編」は省略し在庫処分だけで失礼させていただきます。 悪しからず

           油壺から(81)
在庫処分(4)
人生五十

〝 人生五十 功無キヲ愧(ハ)ヅ 〟

と言ったのは中国の有名な詩人と思っていましたが、念のため「漢詩漢文名言辞典」に当ってみましたら、細川頼之(1329~1392)と出ていたのでびっくりしました。
 この人は室町時代足利義満に重用された武将で、これは「海南行」と言う詩の一節だそうです。六十三歳まで生きましたがその頃は人生五十の時代でした。
 平均年齢が今より30才も短く、どんなところへも歩いて行かねばならなかった時代は、何をするにも、どんな情報を得るのにも時間がかかりました。
 従って人生五十時代の人々が一生に成し遂げた仕事の量は現代人にくらべて桁外れに少なかったことは言うまでもありません。
 浅野内匠頭が殿中で吉良上野介に斬りつけて切腹を命じられた情報が早馬で赤穂の城代家老大石内蔵助に届くまでに三日もかかったのです。ただ浅野内匠頭が切腹したのは何と26才(しかも数え年)のことだったのを言う人は滅多にいません。
昔の人の体力
(関ヶ原)

 今から4百年昔の関ヶ原合戦では五尺八寸の大男が六貫目の甲冑を身にまとい、三貫目の大身の槍を振り回しながら、
 〝やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは・・・〟
と大音声に呼ばわりながら、戦場を駆け回ったと書かれています。
 それでは現代の170センチの男が20キロの甲冑を着て、11キロの槍を軽々と振り回し、広い戦場を飛んで歩けるかと言えば、恐らく殆ど動けないでしょう。
(昔の人の体力)
 関ヶ原から百年ほど経った八代将軍徳川吉宗の頃の一般庶民の平均身長は五尺、体重は十四貫と聞いたことがあります。現代風に換算しますと150センチ53キロほどですが、この貧弱な体でお江戸日本橋から京都まで、東海道五十三次、百二十六里(495キロ)を二十日くらいで歩きました。
 今42.195キロのマラソン・コースを2時間あまりで走るランナーは日本にも大勢いますが、嶮しい山路、舗装していない石コロ道、ヌカルミ、橋のない川を3週間、毎日25キロ歩ける日本人はいないでしょう。昔の人は我々とは段違いの体力を持っていたのです。
 不自由で貧しい日常生活の中、進んで体を動かすことでこんな体力が自然に身に付いたのでしょう。
(忍者)
 当時一流の忍者になりますと一日に80キロくらいは走破したそうです。ただ普通に走ると空気の抵抗が強いので、体を横にして「蟹走り」したとありますが、それでも東海道を走りきるには一週間近くかかった計算になります。 
 また宮本武蔵と真剣勝負をした御子神典膳(ミコガミテンゼン)と言う忍者はとても敵わないと見て、背にしていた八幡さまの建物を飛び越して逃げたと申します。 
 伊賀や甲賀の忍者はヨチヨチ歩きの頃から庭に植えられた麻の苗を飛ぶことを教えられたそうです。麻は非常に成長が早く、一日に何センチも伸びますから、半年もしますと今の走り高跳びの世界記録2メートル45センチくらいは子供でも跳べるようになったと言うことです。
 忍者の教育を受けた子供は今のオリンピックの体操選手くらいのワザは簡単に身につけていたに違いありません。
雄弁家 
 戦前は雄弁が政治家の有力な武器でしたから今の議員などと違って、原稿を読み上げるようなみっともないことはせず、右手を高く振り上げて、
 〝満場の紳士、淑女諸君!〟
から始めるのが普通でした。  
 第29代首相で昭和7年の5・15事件の犠牲になった犬養 毅(イヌカイ ツヨシ)は毒舌と雄弁で有名でしたが、ある時頼まれて仙台刑務所で演説をしたことがありました。
 演壇に上がった彼は例によって右手を高く差し上げて、
 〝満場の紳・・・〟
と言おうと思ってハッと気がついたのは、ここが男囚だけの刑務所だったことでした。彼はとっさに
 〝満場の・・悪漢諸君!!〟
と言い直したそうです。頭の切り替えが非常に早いのが分かります。
 この人は昭和7年の5・15事件で海軍将校に射殺されましたが、当時としては老齢の七十七才で首相でした。
團藤重光教授
 海軍経理学校で昭和18~19年に講義をお聞きした團藤重光氏は当時東京帝国大学法学部助教授で、後に日本の刑法界を指導され、また最高裁判所判事を務められた立派な学者です。
 終戦直後東大の研究室に先生をお訪ねしたことがあります。研究室にあるのはぎっしり詰まった書棚と机だけでした。先生が席を空けて居られる間にチョイ、チョイと書棚の本を開いてみますと、日本語は勿論、英語、ドイツ語に何故かイタリー語の原書ばかり。しかもその各々に何種類かの色鉛筆でアンダーラインがしてありました。
 先生にお聞きしますと、三種類の外国語は辞書無しで十分読み、理解し、記憶している、また読む度に色鉛筆の色を変えていると言うご返事でした。
 この言葉が私の人生の方向をハッキリ決めてくれました。「学者になろうと思ってはならない」でした。 この人生訓は私の生涯に最も大きく寄与してくれたことは確実です。