36期指導官 海軍主計大尉  牛尾  朗
 
 
 牛尾教官を偲ぶの記      松木 久尚
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  牛尾教官が、亡くなられてから何年になるのか、と指を折りながら驚いた。昨年のことのように思えるが、もう12年7ヶ月になるのだ。
  経理学校時代の牛尾教官 ( と言わせて戴きます ) の我々36期生徒に対するご指導は、厳しさの仲に温情が溢れるものだった。生徒を集めての訓示は、若い純粋な私達を感動させた。一挙手一投足、一言一句、感激したものである。先輩であり四修の秀才、訓育万能の学年指導官ともなれば誠に頼もしい教官であった。しかし、8月15日の終戦は、この教官・生徒の絆に急激な変化を与えて了った。
  その後、牛尾教官とお会いしたのは、一年たった夏である。焼けた東京駅前の丸ビルで、白いハンチングを被った教官をお見掛けした。その頃私は丸ビルの小さな会社に勤めていたが、教官は日本通運の品川支店に勤務して、集金業務の途中ということであった。どんな話をしたかもう忘れた。憧れの海軍主計大尉のエリートが集金に精出す時代になったのか、という時の変化に強く心を打たれた。
  その後私は会社を辞め、大学で3年間を過し就職したのが偶然にも日本通運であった。仙台に勤務したが、風の便りに牛尾教官は日通でご活躍されているという話を聞いていた。お会いする機会は中々来ないで、昭和38年教官が大宮支庖におられた時に実現した。
  教官は倉庫課長を経て、大宮支店長代理の要職に就れ浦和主管支店の長谷川経理課長 (兵七十四期) と一緒に、私が東京に転勤してきた歓迎の宴をしてくれたのである。
  久し振りの対面で四方山話に花が咲いたが、話題は海軍のことより、現在の仕事のこと、会社を取巻く環境のこと等が多く、会社人間になり切った牛尾教官を強く感じたのである。
  その後も教官は順調に昇進され、両国、北干住、新宿支店長など皆が羨やむポストを経て、昭和47年に宇都宮主管支店長になられた。宇都宮でゴルフのご指導を戴いたことを思い出す。自己流のフォーム (失礼 ?) でよいスコアーを出しておられた。
  当時、同期の池田耕治君が第一勧銀の宇都宮支店長をしていて「色々御世話になっているのだ」と嬉しそうに話をされていた。
  昭和49年、日通の最大手子会社である日通商事にいかれ、仙台、東京を回られた。東京に戻られてからは、日通ネイビイ会の会長をされ屡々お目に掛かる機会があった。とに角、業務全般に亘って研究熱心な、知識欲旺盛な方った。私の労働関係の本を持って行かれ、読んでおられたのを覚えている。
 常務取締役・東京支店長を最後に、昭和57年6月に日通商事を退任された。その頃は、病気も大分進行していたらしく、3月にお茶の水の杏雲堂病院で胃癌の手術を受けられ、8月に再入院して、9月に同病院でお亡くなりになられたのである。  私が教官を最後にお見舞したのは、お亡くなりになる数日前だった。奥様が付添っておられた。お休み中なので、お話もせずに失礼したが、これが永の別れとなってしまった。教官は海軍時代といわず、日通時代といわず、全力で生涯を駈け抜け、まだまだ期待の大きかった人生を短く終られてしまったと残念に思うのである。いまだに、いろいろ教えていただく事があるような気がしてならない。
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 牛尾さんのこと      中里 不二夫
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   田谷姓になってからは、ほとんどお会いしていないので、ここでは「牛尾さん」と呼ぶことにしよう。
  牛尾 朗さんは私が二号のとき、指導官であるとともに、わが7分隊の分隊監事でもあった。はじめは、その名の如く、なにか鈍重で、牛のような感じではあったが、「朗」という大らかな明るさは、あまり感じられなかった。
  当直監事のとき、温習中の7分隊2号の何名かを輪番で当直室に呼んで、雑談することがあった。すこし首をかしげてする話し方が、私には魅力的に感じられ、いつのまにか私も、話に熱中すると、小首をかしげるようになってしまった。
  日曜外出のとき、同分隊の何人かで牛尾さんの下宿に押しかけて、兵庫県の郷里から届いた餅などをご馳走になった。この頃から、なにか兄貴のような気がしてきた。
  前任地の青島 ( チンタオ ) の話をよくしてくれた。「オールネッチンーーー」という蒙古 ? の凱旋歌と称するものを唄ってくれた。牛尾さんの歌は男らしくて私は好きだった。この「オ lール ーーー」は、私の唯一の隠し芸として、長い間、宴会を乗り切らせてくれた。
  牛尾さんは青島での張宗援 (日本名伊達順之助) さんとのことを熱っぽく話してくれた。小学生のお嬢さんが、牛尾さんのお嫁さんになりたいと言ったと、日を細めたりしていた。張宗援から貰ったという署名入りの何冊かの本のうち、安岡正篤著「東洋倫理概論」を下さったが、終戦後どうなったのか、いま手元にはない。張宗援はいろいろな人の手で小説化されている。なかでも、平成2年に出版された胡桃沢耕史著「闘神 ー伊達順之助伝 l 」の張宗援はよく書かれているということであるが、私が牛尾さんを通じて私淑している張宗援とは少し違っているような気がする。
  戦後何回かお会いしたが、杉並区の和田に下宿しておられた時にお尋ねしたのがじっくり話をした最後である。和服姿の牛尾さんは、ガランとした部屋の小さな火鉢で、品川のときと同じように餅を焼いてくれた。着物の袖からはみ出した太い腕を撫しながら、淡々と、世情と人生を語った。乱れた世の中にありながら、いたずらに悲憤懐慨することもなく、何か私に、張宗援の青島隠棲の姿を連想させてくれた。それからしばらくして ( 昭和23年9月 ) 、張宗援が上海で処刑されたという記事が日本の新聞に小さく載った。
  昭和51年7月に初の7分隊会を新橋の「信楽」でやることになり、分隊監事の田谷さんは出席を快諾されていたが、当日お見えにならなかった。翌日、失念して帰宅してしまったとの詫びの電話をいただいたので、また分隊会を計画しますからそのときまた、と電話を切ったが、つい不精してしまって、分隊会は開かれないまま、57年に田谷さんは亡くなられてしまった。因みに、次の7分隊会は、平成6年6月に、20名 ( 35期2名、36期7名、37期11名 ) 参加して、原宿の水交会で行われている。
  牛尾さんを想うと、まだ行ったことのない中国大陸が浮かび上がってくる。蒙古の歌も久しく唄っていないので歌詞も大分忘れてしまったが、記憶に残っているだけでも書き留めておこう。
 「オール ネッチン オーラーハ オーハ ネッチン サラグール ホイッセル バク  チェル パラネト ピーネ ヒーヤ フーヤ ホー」