年 度 |
春 季 |
秋 季 |
開 催 場 所 |
幹 事 |
開 催 場 所 |
幹 事 |
昭和24年 |
横浜リドー |
本田(親) |
* |
* |
昭和25年 |
弘仁会食堂 |
本田(親) |
* |
* |
昭和26年 |
弘仁会食堂 |
本田(親) |
* |
* |
昭和27年 |
弘仁会食堂 |
本田(親) |
スエヒロ堀留店 |
本田(親) |
昭和28年 |
駒込滝の寿司 |
本田(親) |
虎ノ門共済会館 |
本田(親) |
昭和29年 |
銀座スエヒロ |
本田(親) |
* |
* |
昭和30年 |
銀座スエヒロ |
本田(親) |
* |
* |
昭和31年 |
日本橋スエヒロ |
本田(親) |
* |
* |
昭和32年 |
* |
* |
日本橋スエヒロ |
本田(親) |
昭和33年 |
日本橋スエヒロ |
本田(親) |
日本橋スエヒロ |
本田(親) |
昭和34年 |
日本橋スエヒロ |
本田(親) |
芝三田 梅寿司 |
本田(親) |
昭和35年 |
日鉄鉱業萱手寮 |
高橋(元)本田(親)
矢吹(二) |
日本橋スエヒロ |
高橋(元)本田(親)
矢吹(二) |
昭和36年 |
銀座スエヒロ |
高橋(元)本田(親)
矢吹(二) |
日本橋スエヒロ |
高橋(元)本田(親)
矢吹(二) |
昭和37年 |
田村町スエヒロ |
高橋(元)本田(親)
矢吹(二) |
田村町スエヒロ |
高橋(元)本田(親)
矢吹(二) |
昭和38年 |
赤坂見付 奈良 |
高橋(元)本田(親)
矢吹(二) |
新宿むさしの |
郡山 斉藤(彰)
本田(親)牧野 |
昭和39年 |
ニュートウキョウ |
郡山 斉藤(彰)
本田(親)牧野 |
新宿養浩館 |
小澤(浩) 地引
中川(健) |
昭和40年 |
* |
小澤(浩) 地引
中川(健) |
* |
柴山 渡邉(敬) |
昭和41年 |
* |
柴山 渡邉(敬) |
* |
忍足 古賀 山田(泉) |
昭和42年 |
三井ビル本館 |
忍足 古賀 山田(泉) |
帝国ホテル旧館 |
児島(豊)曲淵 宮尾 |
昭和43年 |
有楽町東京会舘 |
児島(豊)曲淵 宮尾 |
築地 治作 |
佐藤(貞)谷口(充)
永田 |
昭和44年 |
麻布グリーン会館 |
佐藤(貞)谷口(充)永田 |
丸の内 山水楼 |
北澤 佐々木(麟)高達 |
昭和45年 |
東京スカイホール |
北澤 佐々木(麟)高達 |
神戸貿易センター |
北河原 木谷 山内 |
昭和46年 |
東京駅鉄道会館 |
北河原 木谷 山内 |
水交会 |
井原 納 佐藤(信) |
昭和47年 |
水交会 |
井原 納 佐藤(信) |
*
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姉川 納 佐藤(信) |
昭和48年 |
水交会 |
姉川 納 佐藤(信) |
水交会 |
佐近 高橋(芳)土肥 |
昭和49年 |
水交会 |
佐近 高橋(芳)土肥 |
水交会 |
飯田(和)上杉
林(暉) |
昭和50年 |
水交会 |
飯田(和)上杉
林(暉) |
水交会 |
粕谷 永島 三原(昭) |
昭和51年 |
水交会 |
粕谷 永島 三原(昭) |
水交会 |
小澤(浩)藤本 村田 |
昭和52年 |
水交会 |
小澤(浩)藤本 村田 |
水交会 |
大久保 北澤 田中 |
昭和53年 |
水交会 |
大久保 北澤 田中 |
水交会 |
高坂 高島 松浦 |
昭和54年 |
水交会 |
高坂 高島 松浦 |
築地厚生市場会館 |
姉川 岩下 北村(紀) |
昭和55年 |
水交会 |
姉川 岩下 北村(紀) |
水交会 |
岩下 高橋(元)
本田(親)矢吹(二) |
昭和56年 |
水交会 |
岩下 高橋(元)
本田(親)矢吹(二) |
水交会 |
大藤 古賀 中村(文) |
昭和57年 |
名古屋 ホテルリッチ |
大藤 古賀 中村(文) |
浜町ビル |
鈴木(誠)中山 半澤 |
昭和58年 |
浜町北ビル |
鈴木(誠)中山 半澤 |
水交会 |
佐藤(貞)高達 永島 |
昭和59年 |
水交会 |
佐藤(貞)高達 永島 |
水交会 |
加賀 垣水 門脇 |
昭和60年 |
水交会 |
加賀 垣水 門脇 |
有馬温泉
36期・38期合同開催 |
加賀 垣水 門脇 |
昭和61年 |
水交会 |
加賀 垣水 門脇 |
水交会 |
佐々木(良)菅原
本田(豊) |
昭和62年 |
水交会 |
佐々木(良)菅原
本田(豊) |
水交会 |
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昭和62年 |
水交会 |
池田 北村(新)安岡 |
水交会 |
高木(寛)西村(忠)
原(宏) |
平成 元年 |
水交会 |
高木(寛)西村(忠)原(宏) |
水交会 |
黒林 瀧本 馬上 |
平成 2年 |
水交会 |
黒林 瀧本 馬上 |
京都ロイヤルホテル
36期・38期合同開催 |
宮崎 渡邉(満)和田 |
平成 3年 |
水交会 |
宮崎 渡邉(満)和田 |
水交会 |
金子(彰)西部 松木 |
平成 4年 |
水交会 |
金子(彰)西部 松木 |
水交会 |
岩下 奥野 中里 |
平成 5年 |
水交会 |
岩下 奥野 中里 |
水交会 |
伊勢田 占部 信夫 |
平成 6年 |
水交会 |
伊勢田 占部 信夫 |
長崎東急ホテル |
牛山 竹田(腆)宮本 |
平成 7年 |
ベイヒルトンホテル
36期・38期合同開催 |
牛山 竹田(腆)宮本 |
水交会 |
河田 佐藤(剛)隅田 |
平成 8年 |
水交会 |
河田 佐藤(剛)隅田 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
石村 亀井(慎重)橋本 |
平成 9年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
石村 亀井(慎重)橋本 |
水交会 |
小澤(慶)亀井(慎)
高橋(宏) |
平成10年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
小澤(慶)亀井(慎)高橋(宏) |
グランドヒル 市ヶ谷 |
小澤(慶)地引 田口 |
平成11年 |
水交会 |
小澤(慶)地引 田口 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
渡邉(満)占部 瀧本 |
平成12年 |
水交会 |
渡邉(満)占部 瀧本 |
茨城交通大洗ホテル
36期・38期合同開催 |
渡邉(満)河田 藤本 |
平成12年(2001年)茨城大洗での総会 |
開会の挨拶をされる吾郷教官 |
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初日の出を拝む会に集まった面々 |
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「21世紀の初日の出を拝む会」の詳細記事へ |
・ |
平成13年 |
水交会 |
渡邉(満)河田 藤本 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
高達 納 宮崎 |
平成14年 |
水交会 |
高達 納 宮崎 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
西村(忠)佐々木(良)半澤 山田(泉)本田(豊)高橋(宏)菅原 矢吹(伊)堤田 大六野 |
平成15年 |
京都嵐亭
センチュリーホテル |
西村(忠)佐々木(良)半澤 山田(泉)本田(豊)高橋(宏)菅原 矢吹(伊)堤田 大六野 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
粕谷 垣水 奥野
原(宏)池田(耕) |
京都総会(嵐亭)に参集した会員家族 |
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京都芸妓の舞踊「花笠」 軍 歌 演 習 |
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平成16年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
粕谷 垣水 奥野
原(宏)池田(耕) |
グランドヒル 市ヶ谷 |
亀井(慎)和田 佐近 河田 藤本 |
平成17年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
亀井(慎)和田 佐近河田 藤本 |
明石ビューホテル
36期・38期合同開催 |
亀井(慎)和田 佐近 河田 藤本 |
平成18年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
亀井(慎)和田 佐近河田 藤本 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
亀井(慎)和田 佐近 河田 藤本 |
平成19年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
瀧本 和田 藤本河田 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
瀧本 渡邉 西部 |
平成20年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
瀧本 渡邉 西部 |
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* |
平成21年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
本田 西村 信夫 |
* |
* |
平成22年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
垣水 矢吹 高橋(元) |
* |
* |
平成23年 |
グランドヒル 市ヶ谷 |
西村 河田 原<宏) |
* |
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・ |
三六会総会は平成23年、会員の平均年齢が85歳になったのを機に解散し、会報の発行も終了することになった。以後は首都圏での親睦会「新三六会」月例会を開催し、地方からの参加も歓迎する場とし、会員情報は「海経36期のホームページ」に掲載して出来る限りの交流を図ることとした。 |
・ |
三六会の沿革 本田 親史 |
半世紀に渡る三六会の歴史を幾つかのトピックについて振り返ってみることとする。
1.会員名簿の整備
クラス会活動はまず会員名簿の整備から始まった。名簿の基礎となったのは、終戦時に急遽調査し退校の時配布された総員254名の名簿であった。しかし、この名簿には出身市町村名までの記載しかないものもあり、戦災や進学、就職により戦後多くの会員は生家を離れており、連絡がつかない状況であった。さすがに終戦後5〜6年経つと大体の会員は落ち着く処に落ち着いてきた。昭和26年、それまでのデータに基づいて大阪の木谷、勝田両君の尽力で最初のクラス会名簿が作られ配布された。昭和33年以降は、ガリ版印刷の粗末な名簿ながら、ほぼ毎年発行された。
この頃の名簿には住所や勤務先欄に空白が多く、それを埋めて行くことが当時最大の仕事であった。学校および職場の関係を辿り、また、会員への連絡および会合の都度消息不明者についての情報提供を呼びかけ、会員の協力によって空白は次第に埋まってきた。昭和28年には51名だった消息不明者の数が、昭和37年には24名になった。
昭和38年以後は毎年末に名簿が発行されて現在に至っている。
2.会名の決定
昭和30年、クラス会名を決めるためアンケートにより会員から案を募った結果次の13案が寄せられた。築水会、垂水会、蘭交会、新水会、琉泊会、山麓会、三十六期会、淡交会、築地会、三六会、六桜会、潮会、契交会
( 順不同 )
これらの案について投票のアンケートを行ったところ34名から回答があった。多数決をもって「三六会」をクラス会名とすることとなり、昭和38年制定された三六会会則において会の名称として規定された。
3.会合の歴史
昭和24年4月17日、横浜で25名が集まったのがクラス会として最初の会合であった。当時名簿はなかったので、主として東京の各大学に在学していた者同士が開催を連絡し合った。当時木村忠雄教官が関係しておられたクラブを会場として提供して下さった。極度に物資不足の折であったが、教官のご厚意によるウイスキーを酌み交わし、再会を喜び夜の更けるのも忘れて歓談した。
その後毎年1〜2回会合していたが、昭和33年になって年2回とすることが決まり、さらに昭和38年からは会則に従い総会を春秋2回主に東京で、時に地方で開催してきた。
総会のほか、関西、名古屋、九州においてもそれぞれ地区集会が開催され、また各種の懇親会や囲碁、ゴルフの会も開催されてきた。
4.三六会会則の制定
三六会は昭和38年まではとくに改まった会則もないまま円滑に運営されて来た。しかし、これは東京・大阪における幹事および有志会員の努力によるところが大であり、会の一層の発展を期するためには特定の会員のみに負担が掛かるのは好ましくなく、この際会員が輪番で運営の労をとるルールを確立することが適当であること、今後親睦と相互扶助の実を挙げるためには会の財政基盤を固めることが必要であり、そのため会費を徴収することとし、かっその運営の厳正を期するためなどの理由から会則を設けることとなり、昭和38年度幹事会で原案を作成した。その案を会員にアンケートで諮った結果を集約し、同年秋の総会で提案したが、その席では時間の都合で十分討議できず、小委員会に一任ということになった。そこで、当年度および前年度幹事に会員5名を加えた小委員会を同年11月に開き、会則を作成した。
当初の会則は、本会の会員等および会の名称の規定に続いて、会の目的を会員の親睦と相互扶助に置くこと、幹事を東京、関西地区に各数名置き任期一年とすること、会合については毎年春秋2回の総会のほか地域別集会、懇親会、同好会などを開催すること、会報を年1回秋の総会後発行すること、相互扶助については会員死亡の時の香典や遺族援助資金の募金、会員疾病傷害の際の見舞金、扶助金の募金等を規定している。また、会の運営上とくに議決を要するときは総会出席者の三分の二以上の賛成を得て執行すること、年会費はこれを会報の発行、会員の相互扶助等に充て、総会等の集会の費用はその都度徴収すること、会計幹事は会報に会計報告を掲載すること、および会の事務所について規定している。
この会則はその後社会経済事情の変化に伴い数度の部分的改訂を経た。すなわち、会報発行については年1回秋発行を年2回春秋発行に改め ( 昭48
) 、年会費は当初の500円から1,000円 ( 昭41 ) 、3,000円 ( 昭53 ) 、5,000円 ( 昭56 ) に改訂され、年会費の送金方法も規定された
( 平5 )。会員死亡の際の香典は3万円 ( 昭53 ) 5万円 ( 昭56 ) 、3万円 ( 平7 ) と変遷し、供花も加えられた ( 昭54
) 。地区幹事については関西の他に中京、九州にも置くこととなった ( 昭55 )。さらに、幹事の業務執行については当初規定がなかったが、「幹事は一切の会務を処理するものとする。この規定に定めのない事項の処理については幹事の合議でこれを行い、これを総会に報告するものとする。」と、明確化された
( 昭56)。
幹事の輪番制については、昭和38年に会則を作って任期1年の幹事制がスタートして以来平成8年度までの34年間に延べ人数103名、実人員88名という多数の会員が幹事を勤めてきた。この幹事輪番制は三六会の特色とするところであり、会員の親睦と相互扶助という会の目的達成に寄与している。
近くは、平成7年1月17日の阪神大震災に際し、関西地区幹事らにより会員の被災状況がいち早く調査され、幹事からの義援金募集の呼びかけに応じてたちまち会員163名から拠金が寄せられた。このことは、戦後50年を経てなお強い会員間の連帯を今更ながら感じさせた。
5.三六会基金の創設
昭和56年5月、終身会費制度の創設が発議され、同年10月アンケートにより会員の意見を徴した。その結果に基づき衆知を集めた幹事案を作成、同年秋の総会で三六会基金規定が可決され、昭和56年11月1日に発足した。
この基金は、終身会費制度の導入によって年会費徴収事務の軽減を図り、会員相互の扶助の資金に充てるとともに、安全確実な運用益をあげることによって会の財政強化に資することを目的としている。
基金規定は社会経済事情の変化に応じて改訂されてきた。
歴代幹事の拠出勧奨の努力と会員の協力によって、基金への拠出者は逐年増加し平成8年10月末現在157名に達している。 |