千葉県保田海岸での遊泳訓練

 
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 保田海岸の幕営と遊泳訓練  大六野 勤
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  昭和19年7月太平洋の戦局急を告げるとき、房総半島鋸山のふもと保田海岸で幕営訓練が行なわれた。昼は遊泳訓練、夜は吟詠演習、大いに浩然の気を養ったものである
 築地校のポンドから分隊ごとにカッターに分乗し、東京湾を横断して遥か彼方の保田を目指した。以前は帆走で渡っていたそうだが、湾内の交通量も増え、米軍のサイパン島上陸もあり、数隻づつ「大発」が曳航してくれた。艇内は「談話許す」で、至極和やかに楽しく波に揺られて進んだ。
 入校以来7ヶ月がすぎて、この頃には海軍の日課や訓練にも一通り慣れ、精神的にも肉体的にも余裕が生じていた。到着した保田海岸はまさに白砂青松の地、人っ子一人通らず、遥か彼方まで白い波打ち際が続き、松林が連なっていた。東京の雑踏を見慣れていた目には新鮮な別天地であった。
 「さあ、これから十日間この海で泳ぐんだ。」という喜びが胸に湧き上がった。私は幼少期を長崎港外の島で過ごし、中学時代は水泳部で自由形長距離の選手をしていたから、こんなに綺麗な海で、こんなに綺麗な海岸で、遊泳訓練が出来るなんていうのは何物にも代えがたい喜びであった。松林を利用して大テントが張られ、組立て式の簡易ベッドが置かれていた。海軍では生徒を地面に寝せるようなことは無かった。辻堂の陸戦演習は2泊3日で行なわれたが、この時も1泊は民家(お寺など)に、もう1泊はテントと組立てベッドだった。これは士官としての矜持を持たせるための配慮ではなかったのかと私は感激していた。
 海中には25メートルの間隔で木製の大壁が立てられていた。ここで平泳ぎ、クロール、背泳ぎ、横泳ぎなど基本泳法の教授と訓練が行なわれた。はじめは皆赤帽だったが、途中で泳力検定が行なわれ、1〜4級に区分された。水泳の不得手な者にとっては毎日が死ぬような思いであったろう。しかしだんだん上達して最終日には全員が遠泳までこなすようになったから、たいしたものだ。中ほどで、日本泳法の講習があった。水府流の師範が見えて、御前泳ぎや水書などの技を披露し、片抜き手、両抜き手、1段伸し、2段伸しなどを教えてくださった。2段伸しは相当高度な技術で、私もマスターするには苦労した。
 沖合いに木製の飛込み台が作られていた。満潮の時の高さは1メートルぐらいのものだったが、干潮になると3メートル近くになる。初めての者にとっては恐怖の高さである。しかし、艦隊勤務を本務とする海軍士官は艦が沈む時、外舷から海中に飛び込まねばならないこともある。立ち飛び込みでは艦底に吸着される懼れがあるから、頭から突っ込む逆さ飛び込みでありたい。このケイコは度胸が勝負である。最初は立ち飛び込みさえもできない者が多かったが、訓練末期には殆どのものが3メートルから飛べるようになった。
 分隊対抗水泳競技大会で、今でも私の脳裏に焼きついているのは谷太三郎生徒の見事なクロールである。戦前日本水泳陣が、世界制覇を成し遂げた時の流麗な泳ぎである。全く無理の無い、流れるような美しいフォームで、水面を滑る様に飛んでいく。私の泳ぎは力任せで、これでもか、これでもかと力みかえっていた。青木大教官からは「もっと力を抜け。精力善用を図れ。」と言われていたが、最後まで谷生徒のクロールを真似することができなかった。
 訓練最終日は遠泳である。分隊ごとに2列縦隊で、その周りを救助用の通船が取り囲みスピードはこの上なくゆるく、ゆっくりした平泳ぎで進む。けだし、艦が撃沈された時、太平洋では少々のスピードはゼロに等しく、何日も何日も浮き続けることのほうが遥かに重要だからであろう。
 突然、前を泳いでいた隣の分隊の伍長が海面から消えた。しばらくすると浮かんできたが悶えている。「これはただ事ではない。」とクロールで近づいて「どうしたのでありますか。」と尋ねると、「脚のふくらはぎがつった。」という。これでは泳げない。通船に上がるように勧めたが、「いやだ。」という。水中に潜ってふくらはぎを見るとコチコチに固まっている。再度通船を勧めたが、頑として拒否する。
 私は痛いほどその気持ちが分った。「2号生徒の前で、おめおめと通船などに乗れるものか。死んでも嫌だ。」という気持ちだったろう。そうかといって、ほっておけば溺死してしまう
「私の肩につかまってください。」・・・「大丈夫か?」・・・「大丈夫です。」
彼は私の肩にかまり、歯を食いしばって泳ぎ、とうとう完泳した。
 夜は吟詠演習である。東の空に銀色の月が昇り、黒々とした松林がその姿をだんだん明らかにする頃、月に向かって漢詩を吟ずる。指導は二松学舎大学教授渡邊緑村先生である。先生は熊本の御出身で、典型的な九州男児であった。
 「吟詠の本質は曲の巧拙を論ずるのではない。胆を練り、精神を磨くにある。」と。音痴の私にとって、この言葉は千万人の味方となった。力いっぱいの声で朗々と吟じ、毎晩いい気持ちで就寝することができた。
 再び東京湾を横断して帰った私たちは、7月15日から30日までの楽しい夏期休暇を迎えた。これは校長はじめ教官方の暖かい御配慮によるものであったろう。この頃、サイパン守備隊は玉砕し、グアム、テニアン島は米軍の激しい攻撃を受けていたのである。
 垂水時代の遊泳訓練には是非ふれておきたい。
 築地校舎は狭く、到底37期生徒を迎え入れることはできないので、九月に品川校舎に移転した。しかし、サイパン、マリアナ基地から発進したB29の大編隊が日本各地の大都市を空襲するようになり、残虐非道な絨毯爆撃を展開した。そのため、20年1月末垂水校舎に移転し、3月に35期生徒が卒業して、私たちは1号になった。4月 38期生徒を迎え、新分隊が発足し、日課と訓練が始まった。
 遊泳訓練が開始されたのは8月に入ってからであった。垂水の岡から徒歩で海岸までくだり、松林の中で六尺褌に着替え、準備体操の後、分隊単位で泳いだ。明石海峡の潮流は速く、ポンポン船などは潮に逆らって走ることができないこともあった。潮の流れのゆるい時、海岸線に沿って泳ぐのが精一杯であった。
 8月7日の遊泳訓練のとき、永見俊幸生徒(37期)の頭がズボリと沈んだ。私はすぐ潜って後を追った。だが、姿が見えない。なおも深く潜ると耳に痛みを覚える。この時、海底に青白く横たわっている姿を見つけた。直ちに浜辺に引き上げて、水を吐かせ、人工呼吸を行なう。教官も他の1号生徒も交代で人工呼吸を行なうが、遂に脈も呼吸も戻らなかった。急性心臓麻痺であった。
 永見生徒は特旨を以って戦死として扱われ、特に海軍少尉候補生に任じられた。
 その直後に敗戦を迎え、生徒も皆復員した。9月に行なわれた四十九日の祭礼に、全国に散った同分隊の分隊員から捧げられた御香料を持って、私は永見君の御両親の家にお伺いした。鳥取県の境港である。この時38期の井筒邦雄君が、列車の乗車券が入手しにくい時期だったのに、はるばる京都から同行してくれたのはとっても嬉しかった。
 垂水の遊泳訓練は今もなお悲痛な思い出として、私の脳裏を去らぬ。、
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