柔   道
 
築地校時代の柔道試合
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 新しい品川校舎の道場開きでの模範試合
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           海軍経理学校時代の柔道の思い出
                           北 村 紀 雄
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  海軍経理学校の柔道は、オール・ネービーがそうであったように、立ち業主体の柔道であった。「艦船勤務の際、狭い甲板の上に畳を敷いて稽古するのだから、場所をとり時間をくう寝業等の修練は無用」というのが主たる理由であった。尤も、それ以外に、「ねちっこい、見栄えのしない寝業は、恰好の良さ(スマートネス)に拘わるネービーの気風には馴染まない」という面もあったようである。
 築地時代の道場は、生徒数急増に備えて増築した安普請の第三講堂の一階にあった。床下にスプリングの設置を省いてあったため、まともに背中を打って呼吸困難になるケースが間々見られた。その点、品川時代はスプリング付の近代建築で、しかも広さは築地の2倍近くもある本格的な道場であった。垂水移転のため使用期間は半年たらずで、柔道愛好者として随分と未練が残ったのを覚えている。
 垂水の道場は、旧県立神戸一商の古風な建物で、品川に較べるとかなり見劣りがした。35期生徒が卒業し、38期生徒が入校してからは手狭感が一層深刻となり、柔道の訓育時間が大幅に削減されたのが残念であった。
 在校2年弱の間に、道場は二転三転したが、それでもその間継続して柔道が出来たことは、海軍経理学校ならではのことと今でも有難く思っている。
 36期生徒には、柔道練達の士が多く、入校時既に黒帯を締めていた者が15人近くもいた。その中でも忍足文雄生徒は県立横浜二中時代に二段をとっており、内股の華麗さは群を抜いていた。沢口(旧姓 風間)重徳生徒は、身体はさほど大きくはなかったが、手・足・腰の連携動作が見事にバランスしており、捨身技「支え釣込足」の鋭さは古武士の柔術を思わせる感があった。
 訓育のうち柔道を選択した者の中には、中学時代剣道部に所属し、柔道は全く初心者という者も少なくなかった。驚嘆したのは田村義智生徒・瀧本哲郎生徒で、両者とも入校時は白帯で、不細工な乱取り稽古をしていたが、僅か1年足らずの間に、同期生中5本の指に入る程の腕前となったことである。その背景として、築地時代、当時日本最高の達人と目されていた三船十段・白井九段(通称ライオン)の懇切な指導があったことを忘れてはならない。田村生徒は三船先生にその素質と熱意を買われ、屡々御本人直々の指導を受けていたようである。相手の力を利した同生徒の「体落とし」の切れ味には目を見張るものがあった。復員後(昭和22年)、巨漢の警察官との立会い(碑文谷警察道場)で、見事な技を披露(一本勝ち)、観衆をを驚かせた一幕を今でも鮮明に記憶している。中尾仁郎生徒・中平健吉生徒・山口有三生徒等も、前記4生徒と甲乙つけ難い実力の持主で、中尾生徒はその後海上自衛隊でも勇名を轟かせたと聞いている(元海上幕僚長吉田 学氏«兵75期談)
悪いことをしたと今でも悔やんでいるのは、終戦直前の早朝稽古の際、長岡教員の腰を痛めたことで、生徒隊解散時に御見舞いに参上したが、腰に湿布を巻いて身動き出来ぬ状態であった。その後お会いする機会もなかったので、この稿を借りて深くお詫び申し上げる次第である。
 最後に恩師三船十段作詞(古希記念、昭和27年)「柔道の歌」の第1節を付して海軍経理学校柔道の思い出を閉じる。
 
 稽古する時 邪念なく
 心も軽く 身も軽く
 中心帰一の 理りを 
 忘れずはげめ 一筋に
 これぞ真の 柔の道 
 これぞ真の 柔の道。