銃 剣 術
 
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 下士官教員の教え      斉藤 彰夫
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   人間の身体の成長とその能力には、かなりの個人差がある。私の場合、陸軍より低い海軍学校の体重下限に到達したのは、中学5年の一学期であった。入校後も仲間の体力レベルに中々到達できず、年令の下限相当に到達したと思われたのは2号時代の後半であった。3号時代の第14分隊は、分隊対抗競技では常にビリを争い「消耗分隊」といわれたが、私はその典型的な「消耗生徒」であった。
 私が銃剣術係を希望したのはかなり不純な動機で、課業時間が少なく、木剣や防身具などの装備の数も少なく管理が容易であったことなどが理由であったと思われる。あえて強弁すれば、艦船が少なくなり「陸に上った海軍」の様相を呈し始めた時代で、せめてもの技量を鍛えたいという意思があったのかも知れない。
 銃剣術課業を指導したのは、下士官教員であった。屈強な体力の持主で、ナマな生徒の木剣をはね飛ばしたり簡単に避ける技量を持ち合わせていた。生徒は下士官・兵との私語は慎むよう躾られていたが、下士官教員はもちろんそれは承知の上で、「○○生徒、目の位置が違っています」などと指摘する。敬語調で指摘されると上に立つものとして緊張するのは当然で、注意力を集中するようになる。経験豊富で屈強な下士官教員の煽てで、銃剣術課業が成り立っていたといって過言ではなかった。
 後知恵であるが、海軍の組織の強さは、士官・下士官・兵の上下関係のもとに、お互いを尊重する意思が強く働いていたことが一因であったとも思われる。
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