夕 食 後 の 温 習
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                温     習        澤口 重徳 
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  海軍経理学校における「温習」は復習が主となる自習であり、温習室で行われた。温習室は築地校では鉄筋コンクリート4階建の生徒館の2階にあり、各分隊毎に1室で奥の方から1号、2号、3号生徒の順に身長順に入り口に向かって座っていた。従って3号の背中には常に1号の目が光っていたのである。
 床はリノリューム張りで、毎朝甲板掃除でワックスをかけて磨き上げられていたので、筆者のような田舎出身の新入生徒には、はじめは馴染まない感じがしたのではないかと思う。
 机は表面がやや傾斜した蓋版からなり、これを手前より上に上げると中にかなりのスペースがあって、教科書、ノート、文房具などを収納した。机の中に入らない辞書、参考書類は室内左右両側の本棚に置いていた。
 温習時間は定刻の日課表によって1800温習始め、1930温習止め・寝具用意、1950温習始め、2110温習止め・養正と定められており、中休み20分をはさんで正味2時間50分であった。因に「養正」は”温習止メ”の号笛により黙想し、続いて1号生徒に従って御製の奉誦、愛国詩歌等の吟唱を約10分行うものである。次いで甲板掃除を行い一日の課業を終えることになっていた。
 なお、朝食後授業始め(0800)まで、および夕食後温習始め(1800)までの時間は、作業時間を除き「随意温習」とされ、自由時間に当てられていた。また、日課表の予定が急に取止めになった場合、例えば雨天のため短艇取止め、空襲警報発令・解除後の授業取止め等の場合も、しばしば「随意温習」に切替えられた。
 これらの温習時間に生徒は、自己の自習以外になすべきことが少なくなかったのである。
 第一に、生徒教程の諸活動が円滑に運営されるためには、諸係生徒の無私の盡力が不可欠であった。綿密な計画、周到な準備、着実な実施、成果の総括と陰に陽に不断の奉仕が続けられていたことを忘れてはならない。  
 第ニに、公式記録として『分隊日誌』の記帳があり、各分隊毎に1号生徒から3号生徒まで、順番に行われていた。その日誌の巻頭には、記註心得として、次のようなことが明記されていた。
    @ 片仮名文語体トシ楷書ニテ墨書スベシ              
    A 記註ニ当リテハ分隊員既註ノ記事ヲ熟読スベシ         
    B 記註事項ハ時ヲ追ッテ記載スベシ                
    C 誤字脱字及文章ノ訂正等ノ指示アリタル時ハ直チニ之を訂正
      シオクベシ
    D 文字は丁寧且明瞭ニ記シ以テ筆蹟ノ練磨ニ資スベシ       
    E 記註スベキ事項概ネ次ノ如シ                  
        行事(分隊及ビ生徒一般記事。  
        訓示、又ハ注意事項等ノ要領。
        分隊員ニ関スル事項(誕生祝日、軽業等)。
        感想。
        当直監事名。 
 3号生徒は分隊伍長により下書きの点検を受けて清書し分隊監事に提出していたので、しばらくは温習時間の大部分が分隊日誌に費されていたようである。
 第三に、『生徒修業記録』を次の記註心得により記帳するように定められていた。
    @ 修業記録ハ学術、訓練其ノ他ノ生活ニ関スル日々ノ状況及所
      感等ヲ記註シ修業
      状況ヲ明確ナラシムルト共ニ毎週ノ反省セル事項ヲ記註シ生
      徒ノ本分完遂ニ資
      スリヲ以テ目的トス
    A 生徒各自ハ修飾等ヲ加フルコトナク有リノ儘ヲ其ノ都度簡明
      ニ記入スルモノトス
    B 本記録ハ指定ノ時期ニ分隊監事ニ提出スルモノトス 全生徒
      は各自之に従って毎
      日および毎週のまとめを夫々学術関係、訓練関係、生活関係
      、身体其の他の4項目に分けて記していた。
 第四に、日常しばしば週番生徒から作業要員の臨時呼集があり、「手空き3号○○名□□に集合」という号令(手空きとは公的作業中でない者という意味)や、ただならぬ予感がする「3号は総員道場に集れ」という大号令など、様々な指令で温習時間が費耗されていたことも事実である。
 さらにまた激しい訓練に疲れ果てて温習室に落着き自習をはじめたとき睡魔に襲われることもしばしばであった。今、ペンのインキが染み込み色褪せた生徒修業記録(自昭和18年11月28日至昭和20年8月15日、2冊)を見ると、有益な興味深い講義内容に比して復習時間が皆無に近くなってゆく状況を慨嘆する光景が蘇ってくる思いである。
 思えば36期生徒が2号になるに当たっての青木益次主任指導官の熱誠溢れる訓話(昭和19年3月25日)は実に忘れ難いものであった。「そもそも海軍生徒の教程は4ヵ年であった。すなわち第1学年は海軍生徒への準備教育、第2・第3学年は海軍士官として必要な基本的能力を修得する基礎教育の期間であり、第4学年は実務教育及び総合的教育を課する総仕上げの期間と定められていたが、今や戦局の要請により2年半に短縮を余儀なくされた。しかし教育の段階的進行の原則は毫も変わるものではない。諸氏は2号の間に将来主計科士官として活躍するための基礎的能力を獲得すべく全力を傾注せよ。具体的には、学術と訓育を併行させること、余裕の時間はすべて学術に向け、授業時間、温習時間共に精神を集中し学術の修得向上に努めよ。」と諄々と説かれたのである。
 生徒教程が短縮された上に、垂水移転後はますます熾烈となってきた空襲に対する防御作業や退避命令のために授業時間の著しい減少が加わり、さらに戦局の逼迫化に伴って感知されるようになった青年の通弊とも称すべき「上滑り」や「退廃的気分」の影響も懸念され、ひいては所期の能力の養成が望めなくなるやも知れぬという深い憂慮があったことであろう。文官・武官の教官方が生徒を激励され、「随処作主」「浜までは海女も蓑着る時雨かな」「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草取るなり」と今、ここに≠ネりきって生きることを説かれた日々が終戦60年を経た今日誠に有難く想い出され懐旧の念を禁じ得ない。  
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