神奈川県辻堂での陸戦演習
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              「陸戦」のこと       佐藤 貞一
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  中学生時代、ゲートル巻いて、鉄砲かついで歩いていた「教練」が厭になって、戦争をするならもう少しスマートな方法があるのではないか、と生意気な考えをもって、私は陸軍を嫌って海軍に入ったのである。勿論、海軍には陸戦隊という組織があることは知っていたが、「河童、陸にあがれば、おしまいだ」と思っていた。しかし、この不埒な考えも、入校後、間もなく、「陸戦隊用意」のラッパで打ち破られることとなった。壮烈にして格調の高いこの陸戦隊用意のラッパの響きは、今も鼓膜から消えない。辻堂の軍用地で行われた陸戦演習も、真夏の「耐熱行軍」も、辛かったが、これを耐え忍んで来た。築地時代の訓練方式は、いわば「正常」な伝統的様式にもとづいており、概ね納得づくで従事することができたものと思っている。
 しかるに、垂水時代になると話しは一転する。記録によると、昭和20年4月下旬、校長訓示として、「新戦法による陸戦教練を課せられる理由と我等の覚悟」というのがあった。詳細は忘れてしまったが、要するに、我国はいよいよ本土決戦を覚悟せざるを得ない重大な戦局になったということである。吾々は卒業しても乗るべき軍艦は無くなってしまったということを知っていた。本土決戦となれば、海軍が海岸線を防衛することになる。玉砕は覚悟の上である。校長のいわゆる新戦法とはこの玉砕戦法のことである。即ち対戦車肉攻法を中心とする挺身奇襲の肉薄攻撃のことである。
 1号生徒になると、各係の役割分担が行われる。私は敢えてこの陸戦係をかつて出た。兵器や服装の整備から陸戦訓練の指揮まで、広範囲の任務を与えられていた。冒頭に述べた様に、陸戦が厭で仕方なかった人間が、その虜になってしまった。兵器の点検など手を抜かない限り、2号・3号生徒には、厭な1号生徒だと 認識されたに違いない。兵器の点検はきりがない。陸戦訓練は夜間に実施されるのが多かったが、終って総員整列後、点検が行われる。「弾倉底板」「槊杖」が見あたらないもの、中には、帯剣の中味や、鉄兜が紛失しているものなどがある。手分けして探すのであるが、行動半径が広いので発見に困難をきわめた。このことに関連して辻堂演習のときの出来事を附記する。吾々の中で「弾倉底板」を落としたものがいた。全員で、夜中、砂の上を探したことは勿論だが、連帯責任ということで、1人100発近く鉄拳制裁を受けた。なぐって見たとて、紛失物が出てくるわけではないし、なぐる方だって痛いのであるから、こんなにまでやらなくてもいいじゃないかと考えたものである。
 垂水の丘は陸戦訓練に適していた。地形が変化に富み、谷あり池あり、田圃や畑もあった。一定の高台に敵の陣地を想定し、突入の時間を決められる。挺身奇襲の部隊は、10人程度の「組」組織に分けられ、1号生徒が組長になって先頭に立ち、1本の綱で組員を繋ぎ、黙々として道なき道を歩むのである。勿論、点火は許されない。音声も厳禁。先頭が道を間違えば、組員全部が間違ってしまう。こんなわけで、予定時間に全軍が揃って目的地に到達し一斉攻撃をかけるということは極めて困難であった。
 ともあれ、沖縄戦は敗北に終り、米軍の本土空襲は激しさを増し、それに負けじと、吾々の陸戦訓練も厳しさが加わって来た。一方「現地給養戦術訓練」についても、本土決戦にのぞむ主計科の本業の一つとして続けられたし、又、戦備作業といって、防空壕、蛸壷掘りなど、やるべき仕事は際限なくあった。食糧事情が悪化して、栄養失調状態にあった生徒隊は、多くの病人をかかえ乍ら、気力をふるってこれに耐えていった。
 幸か不幸か、終戦となって、吾々は米軍と一戦も交えずして解散となり、垂水の丘の夏草も、つわものどもの夢のあととなって終った。最後の一号生徒として垂水の生活は、この陸戦とは切っても切れない関係にあった。終ってしまえば、意味が無かったとも思われる陸戦訓練も、永遠に、垂水の経理学校と共に消えてしまった。垂水が生徒隊終焉の地となり、我が国の敗戦と共に、永久に歴史の彼方に追いやられていった。何ともいえない悲しさとわびしさで一杯であるのは、単なるセンチメンタルなものでもあるまい。
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