相     撲
 
 ・
 
 ・
 
 ・
              海軍経理学校での相撲     中里 不二夫
 ・
  中学四年生のとき、海軍兵学校を受験して身体検査ではねられてしまった。比胸囲が合格基準に達しなかったためである。
 胸囲を大きくするには相撲がいいということで、早速始めたところ、次の年、基準をクリヤーすることができた。それに加えて、相撲というものの魅力を知り得たことも大きな収穫であった。
 5年生のときの北海道相撲大会には小樽中学校の先鋒として出場したが、メンバー表に165センチ50キロと登録され、全出場者中最軽量であった。得意技は四っ身での寄りで、時には「櫓」の大業を振るうこともあった。
 夏に大相撲の巡業が小樽であり、「まわし」を持って行けば、ただで砂かぶりに座れるというので、飛び入り5人抜きに出場したが、2メートルを越す大男に手の先であしらわれ、場内の爆笑を買ってしまった。この大男は、のちの小結不動岩で、最盛期には身長7尺5分 (214センチ) もあった。
 海軍経理学校に入って一番楽しかった訓練は相撲であった。ひとたび土俵に上がれば、1号も2号もない。相撲の指導に当たった元小結の紅葉川さんは、身長5尺6寸5分(171センチ) 体重19貫 (70キロ) の史上最軽量力士でありながら、鋭い突っ張りと押しで、大正時代に10年間も幕内で活躍した人であるが、私の押しは認めてくれたようである。19年6月初め頃、横綱羽黒山一行を迎えての土俵開きのとき、フンドシカツギ連との飛び掛かり稽古があったが、すでにプロの洗礼を受けていたためか、彼らのよき稽古台にされてしまった。あとで知ったことだが、うら若き理事生達が庁舎の窓ごしにこの稽古を望見し、日頃威勢のいい1号生徒が、コロコロと手玉にとられているのを見て大はしゃぎしたそうである。
 その月の終わり頃に分隊対抗相撲競技が行われ、私は軽業(緑マーク) のため個人戦には出られなくて見学していたが、海軍のトーナメントは気迫と勢いで勝ち抜くものと教えられ、私には到底勝ち上がることはできないと思った。宇土 連君の優勝は実に立派であった。
 品川校での相撲の思い出は全くない。土俵があったかどうかも思い出せない。
 垂水校では俄作りの土俵でさかんに訓練が行われた。わが18分隊には2号に強い人が沢山いて、熱気溢れる稽古が展開され実に楽しかった。牛尾教官の転勤が決まってからだから7月中頃と思うが、分隊の相撲訓練が終わったあとで、牛尾さん、小川次男君、私の3人が残って、いわゆる三番稽古をやったことを鮮明に思い出す。牛尾さんが猛牛のようなうなり声をあげながら押しまくったのが印象的で、最後の若い力を出し切って、ふんぎりをつけて任地に赴こうという悲壮感にも似た執念がこもっていたように思う。
 終戦で帰郷してからは、近くの中学校に押し掛けて、海軍式相撲を指導したが、翌21年に進学のため上京してからは、「まわし」は一度もつけていない。
 ・